有岡(伊丹)城をゆく |
有岡城は元の名を伊丹城という。伊丹城は1472年(文明4) に川辺郡に伊丹但馬守という人物がはじめは居館として築き、文正年間に日本最古の天守台がつくられた。戦国時代を経て次第に堅固な構えになっていった。 伊丹氏の城は、1574年(天正2)織田信長方の武将荒木村重の攻撃によって落城した。その後村重は信長の命により有岡城と改名し、壮大な城を築いた。 有岡城は伊丹段丘の高低差を利用し、南北1.6キロメートル 東西800メートルに及ぶ惣構えが築かれ、要所には岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦を配した惣構の城を完成させた。 1578年(天正六年)村重は本願寺の誘いに応じて信長に反旗を翻す。信長は12ヶ所にのぼる付城 を構築して有岡城を包囲すると、籠城10ヶ月で村重は城を脱出。滝川一益の内応工作により城は陥落し、村重の妻子・家臣600人余りが尼崎で惨殺された。落城後に池田元助が城主となるが、1583年(天正11)に美濃に移ると廃城となった。 明治26年、鉄道の開通によって、城跡の東側が削り取られたが、土塁や堀など今もよくその姿をとどめている。 1975年(昭和50)発掘調査が実施され、土塁・石垣・堀・建物・池等の遺構を検出し、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになった 現在は、模擬石垣のある小公園しとて整備されている。 |