吉村寅太郎(よしむら とらたろう) |
土佐藩士、京都に出て国事に奔走する。平野國臣らと共に盛んに尊皇攘夷を唱え、四方の志士を鼓舞した。同士と共に大和に挙兵し、その先鋒となったが遂に志を達せず自刃した。享年26歳。 |
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頼三樹三郎(らい みきさぶろう) |
京都の人、山陽の第三子で憂国の志深く、同士と交わって盛んに幕政の非を叫んだため、安政5年遂に捕らえられ、翌年江戸で処刑された。享年35歳 |
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梅田雲浜(うめだ うんびん) |
小浜藩士、和漢の学に通じ、子弟の薫育にも当たった。夙に攘夷を唱え、安政5年水戸藩に対する密勅降下に尽力したが、幕府に捕らえられ、翌年獄中で病歿する。享年44歳。 |
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橋本左内(はしもと さない) |
福井藩士、蘭学医学を修め、洋学にも通じて時勢に明らかであったため、偉才を認められて藩政に尽力した。のち一橋慶喜を将軍に立てようとして奔走した。安政5年捕らえられて獄に下り斬刑に処せられた。享年26歳。服装は旅姿となっている。 |
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吉田松陰(よしだ しょういん) |
長州藩士、和漢の学を始め、兵学を修め、諸国を遊歴して知名の士と交わった。攘夷論者であつたが、海外の事情に通じようと長崎に奔り、或いは下田に赴いて密航を企てたが成らず、幽閉の身となつた。のち松下村塾を開き、子弟の薫育に当たった。安政5年同士に連坐して獄に繋がれ、処刑された。享年30歳。 |
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近衛忠熈(このえ ただひろ) |
孝明天皇の皇太子時代の東宮傅、即位されて右大臣、次いで左大臣に昇る。事変で辞官落飾。文久に還俗して関白となる。勤王派。ここでは関白の束帯姿で随身・舎人(とねり)を従えている。 |
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姉小路公知(あねこうじ きんとも) |
三条実美と共に勤王派として奔走、文久3年御所東北の猿が淵で暗殺された。享年25歳。ここでは衣冠の参朝姿である。 |
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三条実萬(三条さねつむ) |
文政7年権大納言、安政4年に内大臣。勤王派で、実美の父。武芸伝奏として公武協和に勉めたが、安政5年辞官落飾し、翌年薨去。孝明天皇の思し召しもあり、のちに梨木神社の祭神として祀られた。ここでは直衣(のおし)姿である。 |
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中山忠能(なかやま ただやす) |
明治天皇御実母の父君。大納言であったが文久3年辞官。勤王派。和宮の宮家別当。のち輔弼の大任につき、従一位に叙せられた。ここでは小直衣(このおし)姿である。 |
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平野國臣(ひらの くみおみ) |
福岡藩士、和歌、雅楽、漢書、書画、武芸に長じ、早くから勤王の志を抱き、国事に奔走した。文久3年同士に呼応して生野に挙兵したが敗れ、捕らえられて処刑された。享年43歳。 |
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