勝連城をゆく
(かつれんグスク)
勝連城は、琉球王国が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司、阿麻和利(あまわり)が住んでいた城です。
阿麻和利は、国王の重重臣で中城に居住した護佐丸を1458年に滅ぼし、さらに王権奪取をめざして王国の居城である首里城を攻めたが、大敗して滅びました。
阿麻和利が滅ぼされたことによって、首里城を中心とする中山の王権は一段と安定しました。
勝連城における発掘調査では、中国製や日本製の陶磁器類が多量に出土しており、阿麻和利を始めとする城主が海外との交易を活発に行っていたことが推測されます。これらの出土品から、勝連城は12世紀〜13世紀に築城されたものと考えられます。
口碑伝承では、初代城主は英祖(えいそ)王系・大成王の五男であつたと言われています。
その後勝連按司は4代続き、6代目に世継が出来ないことから養子縁組により伊波グスクの伊波按司の六男が迎えられています。
続く7・8代は交代の理由は判りませんが浜川按司になっています。
そして9代目は茂知附按司となります。しかし、この按司は圧政を敷き酒に溺れたことから、人々の信頼の厚い阿麻和利によって倒されます。
彼が10代目の城主となって、勝連はますます栄えることになったとあります。
阿麻和利については諸説がありますが、一説によると北谷間切屋良(嘉手納町)で生まれ、小さい頃は身体が弱く、山に捨てられたといわれています。ひとりで生きていく中で知恵と力を付け、勝連に流れ着いた時には村人たちに魚網みを作ったりして慕われるようになりました。やがて茂知附按司(もちづきあじ)に取立てられ、計略を用いて勝連の按司の座を奪い取ったといわれています。
若くして勝連の按司となった阿麻和利は、人々から慕われ、海外貿易によってますます力を付けてきました。
時の琉球王国尚泰久は、阿麻和利に脅威を持ち、自分の娘百十踏揚(ももとみふみあがり)を嫁がせました。

                                      勝連城パンフレットから

勝連城址碑銘のある四の曲輪から三の曲輪を望む

堅固な三の曲輪の城壁
三の曲輪と復元中の四の曲輪の石垣(左下の石垣)
復元された四の曲輪の石垣
美しい曲線で復元された四の曲輪の城壁
三の曲輪の城壁の全貌

四の曲輪から三の曲輪へスロープ状の階段

階段の上部が綺麗に復元されている
階段から眺めた三の曲輪の突端
階段を登った処にある三の曲輪の城門跡
三の曲輪より一の曲輪(主郭)を望む
三の郭から二の郭への石段
三の曲輪より一の曲輪(主郭)を望む
「二の曲輪」から「一の曲輪」を見上げたところです。この「二の曲輪跡」には「舎殿」が建っていました。
二の郭の殿舎跡
二の曲輪にある、抜け道の伝説がある「ウシヌジガマ」の拝所

三の郭から二の郭への石段

一の曲輪から見た二の曲輪(手前)・三の曲輪の全貌(パノラマ合成写真)
一の曲輪から眺めた二の曲輪の舎殿跡
二の曲輪の城壁
「一の曲輪」を取り巻く石垣です。
一の曲輪の堅固な城壁
一の曲輪の城壁
二の曲輪から復元中の四の曲輪を眺める。
四の郭にある井戸
駐車場から眺めた勝連城主郭の石垣
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