喜光寺
   (きこうじ)
南大門450年ぶりに再建される。
当寺の建物の主要部分は戦国時代の1499年(明応8)に戦火で消失、1544年(天文13)ごろに再建されたが、南大門は間もなく再度の戦火で消失した。明治時代からは薬師寺の末寺で、薬師寺の山田法胤副住職が住職を兼務し始めた1990年には荒廃が進んでいた。
山田さんは「寺らしい姿を取り戻したい」と南大門復興を目指し、「いろは写経」による勧進を92年から続けられ現在までに20万巻に達し資金的な目途がつき2008年春の起工が決定した。
総工費約4億円。行基建立とされる他寺の楼門を参考に、木造2階建て(高さ約13m)を予定しているとのことである。
                           (2007.07.04.朝日新聞の夕刊から)

2008年7月6日再建に向けた起工式が行われ、2010年3月の完成を目指す。起工式には鈴木嘉吉氏(元奈良国立文化研究所長を初め施工会社の関係者約350名が参加し、隣にある菅原天満宮の中村信清宮司がお祓いなどをした後、僧侶らが読経をして工事の安全を祈った。同寺の山田法胤(薬師寺副住職)住職は「門の名前の通り難題な計画だったが、皆様方のおかげで起工式を迎えることができた」と喜びのあいさつをした。
                           (2008.07.7.朝日新聞夕刊から)

完成予想図

歴史散歩へ NEXT
撮影 2007.07.02.
喜光寺は721年(養老5)、天平の僧、行基菩薩(668〜749)によって創建された寺である。
この地は平城京の右京三条三坊に当り、通称菅原の里といわれ、寺名菅原寺と呼ばれていた。
行基菩薩は東大寺造営に当り、この寺の本堂を参考にしたことから、本堂は「大仏殿の試みの堂」(10分の1の規模で造られた)としても知られている。
748年(天平20)、聖武天皇は菅原寺に御行された折、ご本尊より不思議な光明を感得され、そのことを喜ばれ、『喜光寺』の寺額を与えられたという。以後菅原寺を喜光寺と改名したといわれている。
749年(天平21)2月2日、当寺の東南院に於いて行基菩薩は入寂された。遺言により火葬とし、母の墓処のほとりに埋葬した。
その後喜光寺は広い寺領を所有していたが、平安末期から鎌倉時代にかけて荒廃衰退した。
本堂(金堂)は室町時代初期(1400年頃)に再建現在国の重要文化財に指定されている。
ご本尊は、平安時代後期の造像で、丈六の阿弥陀如来坐像である。現在国の重要文化財として信仰されている。
1969年(昭和44)、発掘調査が行われ、本堂基壇と南大門跡が検出され、奈良時代後期の軒瓦などが発見された。現在法相宗に所属し、薬師寺の別格本山として活躍している。
                                                 本堂横の説明掲示板から
本堂((大仏殿の試みの堂)
本尊 阿弥陀如来像(平安時代)(左の脇侍は、勢至菩薩・右は観音菩薩)
弁天堂(ご神体は宇賀神王)
万葉歌集碑(奈良市に万葉歌碑を建てる会の協力により建立されたもので、市内14基目)
石川郎女が詠んだ哀歌(大き海の水底深く 思いつつ裳引平らしし 菅原の里)
釈迦初転法輪像
不動明王像
石仏像(江戸時代に造られたもので、境内に散在していたものをまとめて安置されている。47体ある)