喜屋武城をゆく (きゃんグスク) |
喜屋武グスクは、安慶名大川按司の四男・喜屋武按司が築き、子孫三代の居城であったと伝えられる。 また、大城賢雄こと鬼大城(おにおおぐすく)が幼年期を過したグスクだともいわれている。 『夏姓大宗由来記』によると、「喜屋武グスクは、第一世安慶名大川按司の四男・喜屋武按司の築いたもので、その子の喜屋武按司、孫の栄野比大屋子(えのびうふやく)と三代の居城となった」と記されている。 栄野比大屋子は、鬼大城の父であり、古典音楽の祖と謳われる湛水親方(たんすいうぇーかた)こと幸地賢忠(こうちけんちゅう)は、七代目の子孫だといわれている。 |
喜屋武グスクは、別名を「喜屋武マーブ」あるいは、「仲嶺マーブ」とも呼ばれており、17世紀半ばまで烽火台として設置されていた。 石垣や城門は道路工事のさい、骨材と使用され、現在は、「喜屋武マーブ公園」として整備されている。 公園の周囲を散策したが城址らしき面影は何も残っていなかつた。 |