小谷山上にある戦国期の山城。大規模な曲輪を残す城址は国史跡に指定されている。
北近江の戦国大名浅井亮政(すけまさ)・久政(ひさまさ)・長政(ながまさ)三代の居城で、創建は「浅井三代記」には1516年(永正13)とつたえるが、亮政が主家の京極高清(たかきよ)・高延(たかのぶ)父子を小谷城京極丸に迎えた1524年(大永4)頃の築城と推定されている。
小谷山の尾根に主郭があり、本丸・中の丸・京極丸・小丸・山王丸などの曲輪が連なっている。標高495mの最高峰・大嶽(おおづく)にも砦が築かれ、清水谷(きよみずだに)に城主居城と家臣の屋敷があった。
浅井氏が頭角を現すのは、1523年(大永3)、湖北の守護職をめぐる主家佐々木京極氏の跡目争いで高清を助けて兵を挙げた時からである。
翌年4月、浅井亮政小谷城を築き、本丸背後に石垣で固められた京極丸がある。浅井氏の急成長に対し、湖東・湖南の守護職佐々木六角定頼(観音寺城主)はたびたび小谷城を攻めるが、守りは固かった。亮政の跡を継いだ久政は湖北一円を領国として全盛を極め、、子長政織田信長の妹お市を娶らせた。しかし、背後にある朝倉氏との同盟は亮政の時代に遡ることから、朝倉氏と対立した信長と訣別し、姉川合戦後、1573年(天正1)、信長に攻められ、久政・長政父子は自刀した。羽柴秀吉が入城するが、建物の大半は築城を始めた長浜城に移され1575年(天正3)ごろに廃城となった
小谷城城址碑
小谷山全景
小谷城が築かれた小谷山は、西南麓に美濃と越前を結ぶ北国脇往還(ほっこくわきおうかん)が通り、西方2Kmには京と越前を結ぶ北国街道が通る要所にある。最高峰の大嶽(画面左上)の495mで、その手前になだらかな尾根筋に沿って主郭が築かれた。大手道途中の望笙峠(ぼうしょうとうげ)からは、琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま)の美しい姿が見下ろせる。
は大きく3ブロックに分けられている。浅井家及び一族と家臣団日常生活を営むため、谷間に形成された居館と屋敷からなる清水谷。標高495mの大嶽に戦闘用の詰めの城の地域。そして広間・本丸を中心とした山城である。

小谷城をゆく

滋賀県のお城へ

平成18年4月17日撮影