小田原城をゆく
東海道の要衝に建つ小田原城は、およそ600年前に大森氏によって築かれたとされる。
室町時代に大森氏が築いた山城は、韮山城主北条早雲が攻め取り、
その持ち城となつた。
以後、北条氏5代の約100年にわたる居城となり、関八州(関東8か国)掌握の本城として拡大されていく。
1590年(天正18)、豊臣秀吉軍の来攻に備え、城下町をすっぽりと包む大外郭が築かれた。
「めぐり5里」ともいわれる、中世城郭史に例のない巨城の出現をみる。
城の西1.2kmの小峯の丘陵に、木立に覆われて土塁と大堀切が残っている。堀の幅は15m・深さは10mに及ぶ。さらに裏手にも空堀が丘を断ち切り、不落の城の剛健な伊吹を今に伝えている。
戦乱の世にあつて、小田原城は上杉謙信・武田信玄の侵攻をかわし、秀吉すら、武力でこの城を落とすことは出来なかった。
 
天下統一を狙う豊臣秀吉は、北条氏政(4代)・氏直親子に上洛し、秀吉に臣従の礼をとることを求めてきたが、氏政は潔しとしなかった。
秀吉軍は21万とも22万ともいわれる大軍を動員し、石垣山に「対の城」と呼ばれている「石垣山城」を築き秀吉は悠々と小田原城の兵糧が尽きるのを待った。
1590年(天正18)7月5日に3ヶ月の籠城戦の末に降伏開城した。
氏政と弟氏照は自害。氏直は高野山へ追放され北条家は滅亡した。
その後、関東を領有した徳川家康の家臣大久保忠世が入封し城主となる。城の規模は三の丸の内に縮小される。
次いで、春日局の一族稲葉氏の時代に大改修が行なわれ、近世城郭として生まれ変わった。
のちに、ふただび大久保氏が城主となり、箱根の関を控えた関東の表玄関の押さえとして幕末に至る。
1870年(明治3)、政府の廃城の方針によって、城内の主な建物は解体された。
1960年(昭和35)、本丸跡に3層4階の天主と付櫓を持つ白亜の天主閣が、江戸時代の外観どおりに復興された。
城址は国の史跡に指定され、現在も様々な整備が続けられている。
   
小田原城 天主閣
史跡   小田原城址の石碑
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