大垣城をゆく
大垣城は、水門川の流れを外堀に利用した平城であるが、幅広い内堀を掘った土を城地に盛り上げ地勢を高くしていた。 
復興天主閣    (2004_04_05撮影)
戸田氏鉄公騎馬像

戸田 氏鉄(とだ うじかね、1576年(天正4年3月) - 1655年3月21日(明暦元年2月14日))は、安土桃山時代、江戸時代前期の武将(大名)。近江国膳所藩第2代藩主、摂津国尼崎藩主、美濃国大垣藩初代藩主。大垣藩戸田家2代。

西門
本来、本丸の門は南側の鉄門(くろがねもん)と北側の水之手門だけだったが、修景整備に伴い、天守の西側に狭間(さま)を設けた櫓門形式の門が造られた。
東門
大垣城の表門にあたる櫓門。天守の復興にともなう整備に、旧柳門を移築した。かって、このあたりには本丸の鉄砲多門があつた。
東門石垣
戌亥隅櫓(いぬいすみやぐら)
水之手門跡
丑寅隅櫓(うしとらすみやぐら)
岐阜県のお城へ

1500年(明応9)に竹腰尚綱によって築城されたとされている。織田氏、斎藤氏と支配権が移った後、1583年(天正11年)に豊臣秀吉の家臣、池田恒興が城主となる。その後1596年(慶長元年)に伊藤祐盛が天守を造営した。その際に旅の山伏を人柱とした。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には石田三成が入城し、合戦に備えた。その後東軍により落城。。

明治に入っても破却を免れ、1936年(昭和11年)に天守等が国宝に指定されたが、1945年(昭和20年)7月29日の空襲により天守が焼失した。現在の天守は1959年(昭和34年)に再建されたものである

撮影日 2008.04.12