大手門  重文
城の入口は表側を大手口、裏側こ搦手口という。大坂城には大手口に大手門(幕末まで追手門とも称した)搦手口は東に玉造門、西北に京橋門、北に青屋門を備えていた。
創建は1620年(元和6)で1783年(天明3)に落雷によって破損し、現在のものは1848年(寛永元年)に大掛かりな補修をしたものである。
門を入った留まり場を枡形という。
青屋門
大坂城の非常口とも言うへき門で、徳川時代の1620年(元和6)頃創建され、算盤橋と称する引出(押出し、引入れ自在の装置)が架かっていた。
この門は、1945年(昭和20)8月に大空襲の被害にあい大破したが、1970年(昭和45)に大阪市が残材をもって現状のものに復元した。
青屋門の名称の由来は大坂本願寺時代、この門外付近に青屋町があつたことによるものと推定されている。
桜 門   重文
玉造門跡(玉造口)
大坂城の東南の搦手口にあたる。
ここも大手口と同様な枡形を形成していたが、玉造口の建物は1868年(明治元年)の城中大火で玉造門を残してすべて焼失した。
その後、陸軍の手で玉造門の撤去と石垣部分の変形がなされたので、現在では旧観がまつたく失われている。
玉造部(宝石加工技術者)の集落がこの南方にあつたことによるものと言われている。
太鼓櫓跡
ここは、もと二の丸南部への出入口にあたり、左右の石垣の間に南仕切門と呼ばれる城門があつた。
右側の上に、太鼓を蔵する小さな二階櫓があり太鼓櫓とよばれていた。創建は1628年(寛永5)である。この太鼓は平時には時刻を知らせ、戦時には将士の招集や出陣の合図に打ちならされた。 1868年(明治元年)の城中大火で焼失した。
多門櫓
京橋門跡
北仕切門
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