極楽橋から天守を望む
山里丸と二の丸を結ぶ橋で、もとは幅3mの木造橋であった。
徳川時代の1626年(寛永3)創建されたが、1868年の城中大火の際焼け落ち、そのままになつていた。
その後1965年(昭和40)に鉄筋コンクリート造りで復興された。
この橋の名称の由来は、大坂本願寺時代(16世紀)にまでさかのぼると推定されていおり、「豊臣時代大坂城本丸図」にもこのあたりに木造橋が描かれている。
多 門 櫓   重文
大手門枡形の石垣の上に建ち、二の丸への出入口となる大門を組み込んだ構造をしている。
この櫓は頭上に槍落としの装置があり、出窓を構え、矩折に続櫓が附設されている。
多門櫓の名称の由来については諸説があるが、一般には松平久秀が大和国(今の奈良県)多門城で初めて築いた様式とされ、塁上に築く長屋状の櫓をさす。
この櫓は現存する櫓中、最大の遺構である。
1628(寛永5)に創建され、1783年(天明3)に落雷で焼失し、1848年(寛永元年)に再建された。
乾 櫓
千貫櫓 重 文
大坂城の大手口を守る重要な隅櫓の一つで、1620年(元和6)に創建されたもので、1961年(昭和36)の解体修理の際、土台の木材から「元和6年9月13日の御柱立つ」の墨書が見つかり、この建物の棟上式の日がはっきりした。
現存の城内古建築物の中で乾櫓とともに最も古いものである。
名称の由来につてては織田信長軍の石山本願寺攻めのとき、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、あの櫓さえ落とせるなら銭千貫文与えても惜しくはないと話し合ったと言うエピソードが伝えられる。
六番櫓
一番櫓
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