大洲城をゆく
大洲市の中心部を流れる清流肱川(ひじかわ)沿いにある地蔵嶽(じぞうがたけ)という標高30mの小丘の上にある平山城で兵法にいう「後ろ堅固」な城である。
ここに初めて城が出来たのは南北朝時代、宇都宮氏が築き8代で滅んだ。
天守等が出来たのは秀吉の命による小早川隆景の伊予平定後、1595年(文禄4)に入城した藤堂高虎から1609年(慶長14)入封の脇坂安治(やすはる)、その後1617年(元和3)、伯耆(ほうき)米子から加藤貞泰(さだやす)が6万石で入り城と城下町を形成した。
加藤家は明治の廃藩置県まで13代250年続いた。店主は明治中期に取壊されたが、2004年(平成16)9月、木造4層の天主が完成し一般公開されている。
遺構は天守続の台所櫓と香欄(こうらん)櫓、苧綿(おわた)櫓、三の丸南隅櫓、がある。 旧名大津城で2代目加藤泰興(やすおき)のころ大洲城となった。城下には中江藤樹邸跡・藩校明倫堂跡・私塾古学堂跡があり、大洲近世数学の隆盛の跡が偲ばれる。
復元された天守・多聞櫓・高欄櫓(こうらんやぐら)
天守は4層4階で、大壁造りの漆喰塗り仕上げで、黒塗りの下見板張りと対比が美しい。石垣の修復も、既存の石垣と同じ輝緑石(きりょくがん)(大洲産)が使われている。天守と櫓の間も、多聞櫓の復元で城郭の美しさが再現されている。高欄櫓は重文
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