信貴山の観光案内看板(入口に掲示されている)
大門池に架かる歩行者専用橋
本丸跡に建つ空鉢護法までの参道表示
参道入口から階段が続く
参道分れ道にある案内表示(これからまだまだ階段が続く)
参道分れ道にある案内表示(これからまだまだ階段が続く)
参道もかなり急勾配になる(山道は搦め手口です
山頂近くに奉納されている鳥居を過ぎると空鉢護法に出る
空鉢護法
信貴山頂上の表示版(標高437m)
空鉢堂下にある信貴山城址碑
城址碑の説明看板に記載されている信貴山城の縄張り図
大手口からの本丸下腰曲輪への虎口部
土塁跡
雑木に覆われた切り堀跡
土塁跡
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信貴山城は、標高433mの信貴山雄嶽(おだけ)を中心とする山城で、東西550m、南北700mに渡って120以上の郭を配し、奈良県下最大規模を有する中世の城郭である。
空堀の切り通し堀、土塁、門等の城郭跡が良く残り特に高櫓跡は著名で、中世末、織豊期(しょくほうき)直前の山城として保存状況の極めて良好な例で貴重な遺跡です。
信貴山は古代より河内と大和を結ぶ要衝地(ようしょうち)に位置し、幾たびか築城が繰り返された地である。
古くは天智期における高安城中心城域となり、中世には護良(もりなが)親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点とするなど戦略的に重要な位置にあつた。
その後、戦国時代に木沢長政、松永久秀が築城し、大和を抑える本格的な山城として整備される。1568年(永禄11)三好康長に攻められ信貴山城は落城するが、足利義昭を奉じて上洛してきた織田信長に付き、その加勢を受けて大和一国を安堵されるが1571年(元亀2)には武田信玄に通じて信長に叛するが、1573(天正元年)信玄の病死や義昭が追放され足利幕府が滅亡すると信長に降伏し許されるが1577(天正5)またも信長に背いて、上杉謙信の上洛軍に合わせ石山本願寺攻めの陣を退いて籠城します。
織田信忠を大将の大軍に包囲されて、50日間籠城したが10月10日に落城しました。
、このときの伝承がよく知られていますが、久秀は信長が熱望していた名器で、譲れば命を助けるとまで言わせた「平蜘蛛の茶釜」と共に68歳で爆死したとされる件(くだり)です。
その後、廃城となった。

                                   山頂の説明看板から
信貴山城をゆく