沼田丸跡
本丸の南西に接する沼田丸は、東西約50m南北約65m長方形で、周囲に土塁が築かれていた。更に堀が外側をとりまいいた。
掘は、昭和30年代まで水を湛えていた西南部のものに加えて、発掘調査によつて北辺と東辺にも掘があることが明らかにされた。
新たに確認された堀は、いずれも幅5m、深さ2mのもので、石垣のない素掘のものだつた。北辺の掘内からき大きな石が2ヶ所でまとまって発見された。これらはこの堀の北側にあつたと想定される沼田屋敷などに通じる橋など施設に使われていたと思われる。
本丸と沼田丸の間には、両側を掘に挟まれた幅約5mの南北に細長い区画(帯曲輪)が見つかった。これは本丸を守る施設であろう。
また、沼田丸内の発掘調査では、本丸と同じ構造をもつ井戸が見つかった。
ところで、「沼田丸」の名は細川藤孝の妻麝香(じゃこう)の旧姓にちなんだもので、沼田氏に与えられた屋敷があったところといわれる。
北辺の堀と帯曲輪
この堀跡は沼田丸の北を区画するもので、幅約5m、深さ約2mで、石垣のない素掘りのものである。掘は東端で曲がり、北方に延びる。堀の北方に想定される沼田屋敷へ通じる橋などがあったと思われる。
本丸と沼田丸の間には、両側を掘に挟まれた南北に細長い区画(帯曲輪)が見つかった。ここには本丸へ通ずる橋が架けられていたとみられる。
南面の本丸跡と沼田丸跡との間にある模擬冠木門
東辺土塁と多聞櫓
本丸の東辺に築かれた土塁上の平坦面で、2列の石垣が見つかった。
この幅4mの間に北東隅の建物(隅櫓)とつながった長屋風の建物(櫓)があったと考えられる。
このような構造の建物は多聞櫓と呼ばれ、中に弓矢や槍、鉄砲、火薬などの武器が納められ、城外の敵を攻撃できるようになっていた。また、土塁の斜面にはテラス状の平坦面をつくり、井戸を設けていた。
北辺土塁
細川忠興と玉(ガラシャ)の銅像(本丸跡にある) 
細川ガラシャ(1563〜1600)は、明智光秀の三女、本名を「玉」といい、1578年(天正6)8月に16歳で細川藤孝の長男忠興のもとに嫁ぎ、丹後宮津に移るまで3年間を勝龍寺城で過ごした。
天正10年光秀が主君信長を倒した「本能寺の変」で、丹後の三戸野に幽閉された。2年後豊臣秀吉の計らいで忠興との復縁を許された。
ところが、苦難の生活を強いられた彼女は、心の平和をキリスト教に求め、洗礼を受けガラシャと呼ばれるようになった。やがて関ヶ原の戦いで石田三成の人質になるのを拒み、自害という悲劇的な最後を遂げた。
本丸跡と模擬櫓(管理棟)
城の心臓部にあたる本丸は、東西約105m、南北約70mで、その周囲には水を湛えた幅広い堀が造ら、その内側に高く土を盛り上げた土塁を巡らしている。
堀は深さ約3mで、幅が15mを越え、土塁の裾には石垣が築かれていた。土塁は高さ4〜5mで四方を取り囲んでいた。しかも、最も高く築いた西辺の土塁は、四角い形をした本丸の南側に張り出していた。これは、南門から攻め入ろうとする敵をこの高い土塁上から攻撃する目的があったと考えられる。
土塁南辺の中央に推定される南門の位置では、杭列(くいれつ)や大きな石垣が見つかった。北西隅からは石垣で築いた北門が、北東隅では土塁に登る階段が、東辺の土塁上では長屋風の建物(多聞櫓)の土台である石垣などが発見された。
本丸では、西半分で南北方向の堀や石で蓋された溝などが、東半分で井戸2基や礎石建物三棟が見つかった。堀は幅約4m、深さ約2mで、井戸はいずれも深さ約2m、直径0.9mの石組みのものであった。
多聞櫓への階段
本丸の北東隅から石垣で築かれた高さ4mの土塁が見つかった。この土塁に登る斜面には大きな自然の石を使った階段が7段造られていた。土塁の上は一辺が10m四方の広い平坦な面があり、城の外を監視、攻撃するための建物があったことを裏付けた。この建物は東辺の土塁上に延びる多聞櫓という長屋風の建物と思われる。
井戸跡(本丸)
城にとって最も大切な井戸は、本丸内から4ヶ所で発見された。そのうち、この井戸を含め3ヶ所が細川藤孝による城の改修時のものであつた。
井戸は直径0.9m、深さ2mで、底に太い木を井桁に組み、その上に石を積上げた立派なもので、発掘調査中にもこんこんと水が湧いていた。石には土塁の石垣にも使われた石仏や五輪塔などが手含まれていた。井戸の周囲には、溝や石組の水溜が造られ、当時の生活の一部を知ることが出来た。
本丸跡北門近くに置かれている石仏・五輪塔などの発掘出土物
北門跡
本丸の北西隅から北の出入口が見つかった。この出入口を囲む土塁は高さ2m以上の石垣があり、立派な門が建てられていた。
城内に入るには、堀を渡って第一の門をくぐり四角い形の広場に出る。突き当たりを左に折れ、第二の門を通り、やっと城内に入れる。これは攻め入る敵を土塁上から攻撃し、簡単に城内に入れない構造になつていた。
この門から山崎合戦に敗れた明智光秀が逃げ出したといわれる。
田沼丸への通路
西辺土塁の中央部で、土塁の頂上にある平坦面を深さ1.5m掘りくぼめ、土塁が南北に分断されていた。この土塁斜面を発掘調査したところ、斜面に階段状に掘られ、2ヶ所で段差が見つかり、多量に石が埋まっていた。
このことから、土塁の斜面に石を使って階段をつくり、土塁の頂上まで登り、沼田丸へ渡ったものと見られる。
また、西辺土塁の南端しで人頭大の大きな石や小石が見つかった。これらは土塁上にあつた隅櫓などの建物に使われたみられる。
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