1998年12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に登録された。(考古遺跡としては日本初)
朱雀門朱雀大路に向かって開く平城宮の正門(南から北に向かって眺める)

元日や外国使節の送迎の際に儀式がおこなわれたほか、都の男女が集まって恋の歌をかけ合うのを天皇が見る、というイベントもここでおこなわれました。

朱雀門の裏側(北から南に向かって眺める)
北東側から眺める朱雀門
北西から眺める朱雀門
平城京の入口である羅城門をくぐると、75mもの幅をもつ朱雀大路がまっすぐ北に向かってのびていました。そして、その4km先には平城宮の正門である朱雀門が建っています。
南面大垣
昭和58年、平城京朱雀門側にあたる築地が復元されました。長さ240m、高さ5.63m。この塀が周囲4.6kmの平城京をとり囲んでいたのです。
広大な敷地の中を電車(近鉄奈良線)が走っています。後ろの囲いの建物現在復元中の「大極殿」
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平城宮
撮影 2007.11.19
和銅3年(710)に元明天皇によって藤原宮より遷都し、延暦3年(784)長岡に都が移るまで、首都として日本の政治・経済・文化の中心地になっていた平城宮は、東西4.3km、南北4.8km、約125ヘクタールの広大な原っぱとしてかっての栄華の面影を留めています。
唐の長安をモデルにして造ったといわれる平城宮は、囲いに高い土塀と掘をめぐらし、大路を碁盤の目のように整然と配列した中に、大極殿・内裏・朝堂院・東院・官庁街などを配したものでした。

平安京遷都後は放棄され、農地となっていた。明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇であることを発見、平城宮址(へいじょうきゅうし)は1922年に国の史跡に指定された(後に特別史跡)。のちに(し・あと)が常用漢字外であるため平城宮跡(へいじょうきゅうせき)と書かれるようになった。