いかるがのさと ほうきじ
撮影 2007.10.21.
鐘 楼 跡

三重塔  心礎

三重塔の南方に当寺の正門として建つ四脚門で、建立年代は、その様式上、江戸初期と考えられます。
おそらく真政による再興時のものです。

聖 天 堂

講  堂

寄棟錣葺の建物で、もとの講堂跡に建てられています。現在の建物は、元禄7年(1694)3月(棟札による)に再建されたものです。
なお、本堂付近には、旧講堂のものとみられる礎石が残っています。

この建物は、高さ24メートルで、三重塔としては日本最古で、創建は慶雲3年(708)です。建立後は、再三にわたる大修理が行われたため、建立当初の形式が明らかでないところもありますが、昭和45年から50年にかけての解体修理の際、それまでの研究成果を踏まえた復元がなされ、現在に至っています。

初重内部は土間で四天柱と八角の心柱を立て、四天柱の上に肘木と斗を組んでいますが、二重以上は骨組がいっぱいに組まれています。初重にある仏壇は近世のもので、法隆寺の五重塔のような須弥山が作られた形跡や古い仏壇の痕跡がないので、当初の状況は明らかではありません

法起寺は奈良県生駒郡斑鳩町大字岡本にあり、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺と呼ばれている。
 この寺は、推古十四年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたもの と伝え、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられている。
 創建の由来については『聖徳太子伝私記』に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘(ろばんめい) によって判明する。それによると、推古三十年(622)二月二十二日、聖徳太子はその薨去(こう きょ)に臨み、長子の山背大兄王(やましろおおえおう)に宮殿(岡本宮)を改めて寺とすることを遺 命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したという。
 その後、舒明十年(683)に福亮僧正が聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武十 四年一(685)には恵施僧正が宝塔の構立を発願し、慶雲三年(706)三月に塔の露盤を作った としている。
 この露盤銘に記すように近年境内の発掘調査の結果、前身建物の遺構の一部が確認されており、法起寺の建立以前に岡本宮と見られる宮殿が存在していたことが明らかとなった。同時に、中門を入って右に三重塔、左に金堂、中央正面奥に講堂があり、廻廊は中門左右から堂塔を囲み、講堂の左右に 接続する様式の伽藍であったと推測されている。
 当寺のことは、『正倉院文書』や『日本霊異記』にも見え、奈良時代には相当栄えていたらしいが 、平安時代から法隆寺の指揮下に入り、寺運も徐々に衰微したが、鎌倉時代には講堂や三重塔が修復されている。しかし、室町時代に再び衰え、江戸時代のはじめごろには三重塔を残すのみであったと いう。
 その荒廃を憂い、当寺の再興を発願した寺僧の真政圓忍(しんせいえんにん)とその弟子たちは、 延宝六年(1678)に三重塔を修復した。それ以降も、寺僧たちの努力によって浄財を集め、元禄七年(1694)に講堂を再建、文久三年(1863)に聖天堂を建立し、現在の寺観が整えられている。
 明治維新後は、本寺法隆寺と共に真言宗の所轄となったが、明治十五年(1882)法隆寺が興福 寺と共に法相宗に独立したのにともない、法相宗の小本山となった。
 しかし、昭和二十五年(1950)法隆寺が聖徳宗を開宗したため、当寺も聖徳宗の本山の一つに なっている。
 昭和四十七年(1972)には三重塔の解体修理に着手し、五十年に完成したのに続いて、五十三 年には講堂の修理を行い、五十七年には重要文化財の十一面観音菩薩像を安置する収蔵庫を新設している。
                                             
拝観パンフレットから

西 門

表 門 (南門)

木造十一面観音菩薩立像

三 重 塔 (国宝)
秋の法起寺(コスモスと法起寺)
歴史散歩へ

木造十一面観音菩薩立像(重要文化財・十世紀後半・幹部は杉の一材から彫出・高さ 350cm)

定形造の建物で金堂の旧跡に建っています。
文久3年(1863)2月、当寺住僧順光の発願によって建立されたもので、本尊歓喜天像を安置しています。