法輪寺表門
三重塔
三 重 塔 相 輪
金堂
本来、寺の本尊をまつるためのお堂で、当寺では、塔・講堂とともに伽藍の中心となる建物です。現在の金堂は宝暦11年(1761)に再建されたもので、収蔵庫が出来るまで諸仏をご安置していました。
講 堂
本来、僧が勉強するためのお堂です。現在の行動は昭和35年(1960)に耐火耐震の収蔵庫として改築されたものです。
庫 裏
妙  見  堂
妙見堂には秘仏妙見菩薩(平安時代)を安置されています。妙見菩薩はまたの名を北辰尊星王(ほくしんしょうおう)といい。北辰(北極星)が仏格化された仏様です。妙見菩薩を中心にした「星のお堂」で、格天井(ごうてんじょう)の各升目には、北斗七星や十二宮など妙見菩薩を治める星々が百近く画かれ、天井全体が天空を表し江戸期に作られた星曼荼羅で構成されています。
地 蔵 堂
鐘    楼
西    門
三井寺の表示がある瓦
史跡   三  井   (昭和9年6月26日指定)
法輪寺の西門から北に行った所に史跡がある。聖徳太子が掘られたと伝えられる古井戸のひとつで、所在地の名称の「三井」や法輪寺の別名がある。「三井寺」もまたこれによっている。
井戸の深さは約4.24m・口径0.9mで中ぶくれの筒状になつている。その構造は、底の方に4個の石を組み合わせ、内外の隙間から水がわきだすようにする。側壁は、底部から約1.15mの高さまでの間を乱石積み、その上方約3mの部分は扇形の塼を積んでいる。
井戸の中には今でも水が溜まっている。
奈良の名産「平良柿」
コスモスと三重塔
コスモスと柿
ススキ
近くの畑の中にダリアが咲いていた
コスモス畑
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法輪寺の創建は飛鳥時代に遡ります。当寺の創建には二説が伝えられています。
ひとつは、推古30年(622)聖徳太子がご病気になられた折、太子の御子山背大兄王(やましろのおおえのおおじ)がその子由義王(ゆぎおう)らとともに太子のご病気平癒を願って建立されたという説、もうひとつは、天智9年(670)の斑鳩寺焼失後、百済開法師ゅくだらかいほうし)・圓明法師(やんみょうほうし)、下氷新物(しもひしんもつ)の三人が合力して造寺したとする説です。
昭和25年(1950)に行なわれた石田茂作博士の発掘調査では、伽藍配置が法隆寺式であること、規模は法隆寺西伽藍の3分の2であること、出土する鐙瓦・宇瓦の文様が法隆寺のそれぞれと類似することが判明しています。薬師如来坐像と伝虚空蔵菩薩立像の飛鳥様式の仏様二体を伝えるところからも、7世紀末頃にはかなり寺観が整っていたであろうと考えられます。十一面観音菩薩立像・弥勒菩薩立像・地蔵菩薩立像・吉祥天立像・米俵毘沙門天立像など、平安時代の仏様を多く伝えることから、平安時代には寺勢はなお盛んであったようです。
法輪寺が現在のような規模になったのは、正保2年(1645)の台風によります。伝えるところでは、金堂・講堂・中門・廻廊・食堂等、諸宇ことごとく倒壊し、ただ三層目を吹き飛ばされた三重塔だけが残ったと伝えます。
享保年間、寳祐(ほうゆう)上人は法輪寺の復興に着手されます。上人は復興の勧進のためにも、当寺の聖徳太子感得と伝える妙見菩薩の信仰をひろめられ、熱心な信者となった大坂の町人が檀主となり、さらに多くの法縁を得て修理が行われました
。元文4年(1739)には三重塔修復が緒に就き、その年の7月には心礎から仏舎利が発見されるにいたり、その顛末は、寳祐上人が感動を込めてに記されています。
塔修復なかばで斃れた寳祐上人のあと、遺弟大圓上人等により、宝暦10年(1760)に塔修理は完成し、宝暦11年には現金堂、続いて旧講堂、南大門が復興されました。
三重塔は明治時代に入って国宝に指定され、明治36年(1903)には解体修理が行われましたが、昭和19年(1944)7月21日、雷火にて炎上・焼失d国宝指定は解除となり悲運に遭遇してしまいました。、
昭和50年3月、三重塔は創建当初の様式にて竣工し、また、旧講堂の位置には、昭和35年、耐火・耐震にと収蔵庫が建立され、旧講堂、金堂の仏様が一堂にご安置されています。
撮影 2007.10.21.
法輪寺は斑鳩の里でも北方にあり、土地の名によって三井寺(みいでら)ともよばれています。三井(みい)の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地にお移しになったところから起こったと伝えています。