撮影 2007.07.02
所在地 奈良市五条町
開山 鑑真(がんじん)
宗派 律宗総本山
本尊 盧舎那仏
唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で智満について出家し、道岸、弘景について、律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。
最初の渡海企図は743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた。2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕され、3回目も失敗に終わる。
その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。
748年栄叡がふたたび大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風にあい、14日間の漂流の末、はるか南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡がのこされている。
751年、鑑真 は揚州に戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。(完全に失明していなかったとする説もある。)
752年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに、遣唐使藤原清河らが訪れ、日本への渡海を約束した。しかし、当時の玄宗皇帝は鑑真の才能を惜しみ、渡日を許さなかった。そのため、753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂はひそかに鑑真を乗船させた。11月17日に遣唐使船が出航ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日、薩摩坊津に無事到着し、実に10年の歳月を経て、仏舎利を携えた鑑真はついに宿願の渡日を果たすことをできた。
鑑真和上像
南大門
昭和35年(1960)に天平様式で再建されたもので、五間の中央に三扉とする、切妻造りの建物です。
現在掲げられている扁額は複製で、実物は講堂内に収蔵しております。
世界遺産指定記念碑(1998年12月指定)
講堂(国宝)
平城宮の東朝集殿を移築・改造したもの。東朝集殿は、壁や建具のほとんどない開放的な建物で、屋根は切妻造であったが、寺院用に改造するにあたって、屋根を入母屋造とし、建具を入れている。鎌倉時代の建治元年(1275年)にも改造されているが、天平時代宮廷建築の唯一の遺構としてきわめて貴重である。堂内には本尊弥勒仏坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)を安置する。1970年に新宝蔵が完成するまでは、堂内に多数の仏像を安置していた。
西側から眺める
鐘  楼
鼓  楼  (国宝)
金堂・講堂の東側に建つ、小規模な2階建の建物。鎌倉時代・仁治元年(1240年)の建築。鑑真将来の仏舎利を安置するため、舎利殿ともいう。
礼    堂  (重文)
鼓楼の東にある南北に細長い建物。もとの僧房を弘安6年(1283年)に改築したものである。隣の鼓楼(舎利殿)に安置された仏舎利を礼拝するための堂である。内部に清凉寺式釈迦如来立像(重文)を安置する。
旧 開 山 堂
松尾芭蕉句碑
東室の北側の旧開山堂(現在は聖武天皇坐像を奉安しております)の手前に松尾芭蕉の句碑があります。
元禄元年(1688)ここで、鑑真和上坐像を拝した際に芭蕉が詠んだ
「若葉して御目の雫拭はばやの句が刻まれています。
戒壇の門(南側)
境内西側にある。戒壇は、出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う場所。戒壇院の建物は江戸時代末期の嘉永元4(1851年)に焼失して以来再建されず、3段の石壇のみが残っている。1980年にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が壇上に置かれた。唐招提寺の戒壇は創建時からあったものとする説と、鎌倉時代の弘安7年(1284年)に初めて造られたとする説とがある。
戒壇の門(東側)
御影堂(重文)
鑑真の肖像彫刻(国宝)を安置する(開山忌の6月5日−7日のみ公開)。建物は興福寺の有力な子院であった一乗院(廃絶)の遺構。1962年までは地方裁判所の庁舎として使用され、1964年に唐招提寺に移築された。障壁画は日本画家東山魁夷によって新たに描かれたものである。
鑑真和上御廟へ続く続築地塀(ついじべい)(左側に入口の門がある)
続築地塀(ついじべい
門を入ると杉木立に囲まれた参道が続く(苔が美しい)
鑑真和上御廟
御廟内にある井上 靖 原作「天平の甍」の記念碑
新  宝  殿
宝  蔵
「宝蔵」は創建当時に建築されたものです。経蔵 、宝蔵ともに国宝です
経蔵
「経蔵」は 「唐招提寺」の創建以前に存在しました「新田部親王邸」時代の建築と言われ、「校倉造」では「正倉院」より古く現存最古の遺構です。  
本  坊 の 門
地 蔵 堂
醍 醐 井 戸
東塔の礎石
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唐招提寺は、中国の高僧 鑑真和上(688〜763)により創建された唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。
鑑真和上は聖武天皇の招聘に応えて来日を決意され、五度の渡海の失敗と度重なる艱難辛苦のすえ両目の光を失いながらも753年、渡航を志してゆうに12年の歳月を経て、来日を果たされました。この偉業は日本でも中国でも広く知られています。
唐招提寺が創建されたのは和上来日より五年後の759年、律宗の研究道場として故新田部親王の旧邸を授けられたのが始まりです。
境内には金堂、講堂、宝蔵、鼓楼(いずれも国宝)をはじめとする伽藍が立ち並んでいますが、これらは朝廷や有力者などの寄進により徐々に整えられていったもので、現在でも、創建時の姿を伺い知ることができます。