高松城をゆく

艮櫓(うしとらやぐら)
艮櫓はもともと東之丸の北東の隅(現在の県民ホールの敷地内)にあった櫓で、北東を丑寅ということからこの名前が付いた。
完成は1677年(延宝5)頃といわれ、月見櫓と同時期に造られた。3層3階・入母屋造・本瓦葺で、形は月見櫓と似ている。
初層に大きな千鳥破風があるのが特徴である。昭和40年に当時の所有者であった旧国鉄より高松市が譲り受けて、2ヶ年の歳月をかけて、東之丸より旧太鼓櫓跡に移築復元された。

香川県のお城へ

 

高松城はまたの名を玉藻城と呼ばれていますが、その由来は万葉集で柿本人麻呂が「玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ」と詠んだことに因んで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれたいたことによるといわれている。

この城は1587年(天正15)に、豊臣秀吉から讃岐(香川県)一国17万6千石を与えれ、国主として入府した生駒親正(ちかまさ)が、1588年から香東郡野原庄とよばれていた現在地に築城に着手し、瀬戸内海に直接面し堀に海水を取り込んだ水城・海城である。
縄張り(設計)は、当時築城の権威であった黒田孝高(よしたか)とも細川忠興ともいわれている。
数年歳月を費やして完成し、高松城と名づけられた。瀬戸内海の海水を外堀・中堀・内堀に引き込んだこの城は、日本の三大水城のひとつと呼ばれている。
城には、本丸を中心に時計廻りの方向に二の丸・三の丸・桜の馬場・西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えとなっていた。
生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、1640年(寛永17)に生駒騒動といわれるお家騒動により、讃岐一国を召し上げられて、出羽国(秋田県)矢島1万石に移された。
このあと、1642年(寛永19)に当時常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重(よりしげ)が東讃岐12万石の城主として入城した。 
頼重は、徳川家康の孫で有名な徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたる。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の監察役を命じられていたといわれている。頼重以降、松平氏の治世は11代228年間間にわたり、高松は松平氏の居城ととして栄えた。

お城は、天守を3層4階から3層5階にし、最上階が下層より大きい南蛮造り模様替えし、海側を正面とする大改造をおこなった。海運の要の城として船入りも備えた。

天守は、1869年(明治2版籍奉還により廃城となり、一時政府の所管となったが、1890年(明治23)に城跡の一部が松平家に払下げられた。
現在の玉藻公園の面積は79、587u(約2万4千坪)で、往時の城域66万u(約20万坪)と比べると8分の1ほどの広さです。城跡には重要文化財の月見櫓・艮櫓・水手御門・渡櫓とともに石垣や堀などが残り、昭和30年3月2日に国の史跡に指定された。
また、高松城は彦根城と姉妹城縁組をしていますが、これは第11代藩主頼總(よりとし)の奥方として、彦根藩主であった井伊直弼の次女千代姫が輿入れしている縁から、昭和41年に結ばれたものです。
築港建設による埋立や道路開発などで縮小されたが、中心部は良く整備されて当時の面影を残している。高松市では、天守を含む玉藻城復興計画を立てておりその完成が待ち遠しい。
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