高取城をゆく
高取城は別名「芙蓉城」とも言われ、近世山城の典型としてよく知られ、
本丸十五間多門跡の石垣
奈良県のお城へ

壷阪寺から山道を行くと「七ツ井戸」下で行き止まりとなり、幅80pほどの急な細道を、手すりのロープにすがりながら、葛の茎をはらいよけて登る。
やがて、目の前に石垣群がみえるが、その上には更に壮大な石垣群が現れる。
巽高取雪かとみれば  雪じゃござらぬ土佐の城  
七ツ井戸
本丸跡から下を覗くとまるで石舞台のようにみえる十五間多門櫓の跡。
1872年(明治5)の廃城で櫓のほとんどが撤去され、今では建物はひとつもないが、石垣はほぼ完全に残っており、昔を偲ばれる。
最近、地元の要請を受けて奈良産業大学情報学部(大西菊太郎教授)が、CGによる高取城再現に取り組み完成した。
と歌われている。
築城年代は、1332年(元弘2)との説もあるが確実ではない。しかし、南北朝時代、南大和に大きな力を振るった越智氏の支城の一つとして築かれたものである。元弘のころに一時子嶋氏の居城となり、更に越智氏の居城となった。
壷阪口からの登城道(かなり急な坂です)
城跡は、標高583.3mの山頂部を本丸として以下二の丸、三の丸、大手曲輪、吉野口曲輪、壷阪口曲輪が連なっている。それに隣接する外郭部は、侍屋敷群と放射線状にのびる大手筋、岡口、壷阪口、吉野口の入口があつた。
城の形態は、1504年〜1554年(永正〜天文)の頃に整備された。
当初の頃は越智氏にしても高取城はたんに、越智城、貝吹山城に対する出城としか考えていなかったようであるが、自然的要害の条件を備えているところから次第に本格的なものとして重視されるように至った。
高取城再現CGへ