多門城をゆく
1559年(永禄2)筒井順慶を破った松永久秀が翌年、眉間寺山に大和攻略の拠点として4階櫓をもつ近世城郭の発祥とも言われる城を築いた。 
標高115mのこの山は、かって眉間寺があったため、眉間寺山と称した。
久秀はこれを多門山と改称し、城を多門城と称した。
信仰する信貴山の多聞天(毘沙門天)にちなむという。
城址は残念ながら当時を偲ぶ面影もなく、現在は市立若草中学校が建っており、中学校への急な石段の上り口に「多門城跡」の石碑が建っている。
東側の堀切跡
堀切(陵を切断して曲輪を防御する空堀)は、現在若草中学校の通学路になっている。多門城の水堀の役目を果たしたのは、近くを流れる佐保川だった。
城あとから出土した無念仏
若草中学校の石段の右隅に、出土した無念仏や五輪塔の一部と思われる石が安置されている。

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