豊見城は、14世紀末から15世紀初めの頃、汪応祖(わんおうそ)が築いたといわれる。 沖縄の中世は、沖縄本島を三つに分けた、北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)の三勢力による戦国時代で、それぞれ「王」を名乗り抗争した。 汪応祖は、そのうちの南山王の従弟で、1404年、明の皇帝から「山南王(さんなんおう)」の称号を賜った。 ところが、汪応祖の兄・達勃期(たぶち)は弟の栄達を妬み、1414年、汪応祖を殺して自ら王位に就いた。 しかし、按司(あじ=地方長官のこと)たちは兵力を集め達勃期を倒した。 その跡には、汪応祖の長男・他魯毎(たろまい)が国政を執った。この頃中山の尚巴志(しょうはし)が勢力を拡大しており、北山を平らげ、南山に攻め入った。 年不詳だが、尚巴志は豊見城を攻め、火攻めで落城させた、と云われている。南山滅亡は1429年のことだ。こうして尚巴志は琉球全土を統一した。(第一尚氏王朝) (「豊見城村史」から |
豊見城城をゆく (とみしろグスク) |