グスク跡への入り口

城内にある城壁の跡

城壁の石垣跡
石垣跡
自然石を利用した石垣
「ようどれ」の上に当たる城壁跡

「 浦添ようどれ 」 の上あたりの城壁跡

ディーグガマ
浦添グスク内の御嶽(うたき)(拝所)の一つ。「琉球国由来記」にある渡嘉敷嶽とされ、『渡嘉敷』は浦添の古い地名と考えられている。かって大きなデイゴの大樹があつたことから、ディーグガマと呼ばれるようになったという。(ガマは洞穴のこと)
城内の広場(主郭のあった所か?)
トゥン(殿)跡
トゥンは、神をお招きして祭祀を行う場所のことで、本島北部や奄美では神アシャギ、先島諸島では座などともいう。
昔の「浦添城址碑」
城址跡から宜野湾方面を眺める
「浦添ようどれ」への入口階段
「ようどれ」とは「夕どれ」=夕凪のことで、「死者の世界」という意味だそうです。
ようどれの案内図
ようどれ」入口。
暗しん御門(くらしんうじょう)
暗しん御門は、加工した岩盤と石積みで出来たトンネル状の通路のことです。薄暗くひんやりとしていて、地下通路を通って「あの世」に行くような雰囲気でしたが、沖縄戦で天井の岩盤は崩れてしまった。
二番庭から一番庭に入る門
復元された「ようどれ」の門
一番庭にある墓
東室。尚寧の王陵といわれる
西室。英祖の王陵といわれる
復元された一番庭の石垣(お墓の上部)
一番庭の奥。
一番庭から門を眺める
一番庭の城壁越しに眺めた東シナ海
「ようどれか」ら出た所から「暗しん御門」跡を眺める
暗しん御門の上部の岩盤(集中砲火による砲弾による穴か?)
復元された「ようどれ」の全景
中央の城壁が復元された「暗しん御門」の基礎部分
「ようどれ」の入口付近の復元された城壁
日本のお城へ H.19年の登城へ  沖縄県のお城へ
浦添城をゆく
(うらそえグスク)
 浦添グスクは首里城に首都が移るまでの約220年間中山王の舜天王統・英祖王統・察度王統の居城であつたが、その後首里に移った後(1361年から1427年の間と考えられている)廃墟と化したようである。
その後、1609年には薩摩軍侵攻によって城は島津方に焼き払われ、更に第二次世界大戦において、 地下に日本軍陣地があったことも手伝って、 太平洋戦争の戦場となり、地形が変わるほどの被害を受けた。
その後も採石工事や墓地造成工事などにより部分的な破壊を受け、放置されていて、遺構としては、矢立壁と石塁の一部が残されていおり当時を偲ぶことが出来る。
 重要な文化財であることから、1982年から数次にわたる発掘調査が行われ、沖縄県最初の柵列と堀がセットになった遺構が発見されている。城域北側崖下の中腹には、王陵である“浦添ようどれ”があり、正門前には、1597年に、尚寧王が首里から浦添城までの宿道(国道)を石畳に整備・改修した際の竣工記念として建立した石碑がある。
 現在、城域は浦添大公園として整備され、都市公園に指定されている。