宇和島城をゆく

宇和島城は、市街の中央海抜約80mの城山に白壁の総塗ごめ造り、独立式、本瓦葺、3層3階の天守をもつ平山城。
規模は小さいが、全体的に美しい均衡を保ち、荘重で江戸時代天守の典型的なものとして、昭和9年天守は国宝に指定されたが、昭和25年5月文化財保護法の制定により、重要文化財に指定され、城址全体も、国の史跡に指定されている。
宇和島城天守
宇和島に初めて築城された年代は明らかではないが、941年(天慶4)橘遠保が宇和地方の豪族となり、1236年(嘉禎2)には、西園寺公経の所領となり、戦国時代1546年(天文15)家藤監物の居城となって、板島丸串城といわれていた。
1585年(天正13)小早川勝隆の領するところとなつた。この頃までは番城の程度にすぎなかったのものと思われる。
現在の地に初めて天守が建造されたのは1601年(慶弔6)ころ藤堂高虎によってであるといわれている。
1595年(文禄4)藤堂高虎が宇和郡7万石に封ぜられるに及んで初めて本城となり、1596年(慶弔元年)築城工事を起こし1601年(慶長6)頃までかかって、城堀をほり石垣を築き、天守以下大小の矢倉を建て、厳然たる城郭を造った。
1608年(慶長13)高虎が今治に転封となり富田信濃守野信高が入城したが、まもなく改易となり、約1年間幕府の直轄地となった。
1614年(慶長19)には奥州仙台の藩主、伊達政宗の長子秀宗が、宇和郡10万石を賜り1615年(元和元年)に入城し、それ以降明治の廃藩置県まで9代250年間伊達氏歴代の居城となった。二代宗利の時、藤堂時代の城地を踏襲し不等辺5角形、2辺が海に面し海運を意識し、1664年(寛文4)から天守以下城郭の大修理を行い、1671年(寛文11)に至って完成した。現在の天守はその時に完成した姿をそのまま残している。

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