柳生城がいつ頃築城されたのかは不明である。柳生村は以前は楊生庄と称し、春日社領神戸四箇郷の一の小柳生庄であった。以後戦国時代末期まで山中四箇郷として団結して、筒井氏と古市氏との争いの影響を受けるようになっていた。
 筒井・松永両氏の抗争時には美作守家厳、田島守宗厳父子の代であった。宗厳柳生新陰流の祖石舟斎となり、その子五男宗矩徳川家康に仕え、のちに柳生藩を開くようになった。
石舟斎塁城跡石碑
芳徳禅寺(ほうとくぜんじ)
1638年(寛永15)、柳生宗矩[むねのり]が父で柳生新陰[しんかげ]流の創始者、石舟斎[せきしゅうさい]の菩提を弔うために建立。
以後、柳生家の菩提寺となった。
開山は宗矩と親交があった沢庵[たくあん]和尚で柳生の里を一望に見渡すことが出来る山王台上にある。ここはもと柳生家の居城の地といわれ、石段、掘り割り、見張り場など、かきあげ城の名残を今にとどめている。
山王台は自然がつくりだした天守閣なのである。争乱の世に、大和、山城、伊賀の国境に位置し戦国畿内の動静をうかがうのに、最適の地といえる。。
本堂には宗矩沢庵の木像を安置し、柳生新陰流の兵法書なども展示。本堂裏手の墓地には石舟斎、宗矩、十兵衛ら一族の墓80数基が整然と並ぶ。
本堂
柳生宗矩像
烈堂和尚像
沢庵和尚像(左)       烈堂和尚像(右)
正木坂剣禅道場
柳生家墓所
柳生宗矩(むねのり)
柳生家歴代のお墓
十兵衛杉
寛永3年、独眼竜柳生十兵衛三巌が諸国漫遊に旅立つ際、先祖の墓にまいり、この杉を植えたといわれる。樹齢約350年余りを経て今は落雷のため枯れてしまっている。
柳生城があったとされる跡には正木坂道場、芳徳寺や学校があります。またその東側の標高318mの最高所には本丸があったといわれます。一番の見所は本丸の北東部に延びる小郭が二つとそれぞれを分ける大きな空堀と、郭に残る土塁でしょうか。
 本丸の城跡らしき遺構は確認出来ませんが、南側に延びる郭にも空堀があったようですが、雑草と潅木に阻まれ確認することは出来ませんでした。
本丸へ続く道
空堀跡?
山頂本丸跡
一刀石 (いっとうせき)
この大きな石は花崗岩ですが中央で見事にわれています。一説によると柳生新陰流の始祖柳生宗巌(むねよし)(石舟斎)が天狗を相手に剣の修行をしていて、天狗と思って切ったのがこの岩だったと伝えられている。

柳生城をゆく

奈良県のお城へ BACK

「 芳徳禅寺」