柳生城は、地元の豪族柳生氏の城として、標高320mの山頂に所在していた。
1544年(天文13)、筒井順昭(じゅんしょう)に攻められ、兵糧攻めにあって降伏する。
1571年(元亀2)の筒井順慶と松永久秀の合戦では、当主宗巌(むねよし)(石舟斎)は松永方に属して追われ、その後、柳生谷に籠った。
再び世に出たのは、宗巌の五男宗矩(むねのり)の代である。関ヶ原合戦の功もあり、徳川2代将軍秀忠の兵法指南役になった。
1636年(寛永13)大名となり、亡父宗巌の菩提を弔うため1638年(寛永15)に芳徳禅寺を建て、引続き正木坂の上に陣屋の建築をはじめ1642年(寛永19)に完成、その後宗冬が増築、設備を整えた。
陣屋は、1747年(延享4)に全焼し、仮建築のまま明治維新を迎え、柳生藩庁舎となったが、その後公売それた。
現在、陣屋跡は史跡公園となり、「柳生城」の石碑が立ち、また屋敷跡の基礎が復元されている。
柳生城石碑
復元された陣屋跡の基礎

柳生藩陣屋跡をゆく


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