八尾城をゆく

八尾市立図書館ホームページより

八尾城は、南北朝期の八尾の土豪八尾別当顕幸の築城と伝えられています。顕幸が南朝方に帰して後は、北朝方に占拠され、その河内における重要な拠点となります。延元2年(1337年)、南朝方の高木遠盛らは八尾城の奪還をはかり、合戦となり ますが、その折の猛攻撃で、城内の堂社・仏閣・矢倉・役所などがことごとく焼失しました。八尾城はその後も、南北朝期・室町時代を通じて、幾多の合戦の舞台や陣地となります。

イエズス会日本年報によると、戦国時代末期、八尾城は信長配下のキリシタン武将池田丹後守教正の居城であり、城下には、数多くのキリシタンが住んでいたということです。その後、教正は秀吉により美濃に移封され、城は廃城となります。

なお、八尾城の所在地については、常光寺を含む西郷から木戸にかけての地域(現本町)であったとする“西郷説”と、旧大和川に面した別宮から八尾座にかけての地域(現南本町・高美町・安中町)であったとする“八尾座説”の2説があります。西郷説は、江戸時代の兵学者山鹿素行の描いた『八尾(矢尾)城図』を、八尾座説は、「古城跡無御座候」という記載のある『西郷村差出明細書(江戸中期)』や城を想定させる小字名、堀跡とも見られる遺構の存在などを主要な論拠にしています。

八尾城址碑がある八尾神社
八尾城址碑
八尾神社本殿
祭神は宇麻志麻治命で延喜式内社である。この地を本拠とした物部氏の一族、粟栖連がその租神を祀ったものであろう。古くから西郷・木戸両村の氏神で明治41年(1908)に八尾神社と改めた。八尾は、古くは矢尾・矢生・箭尾とも書かれ、物部氏の一族で矢作りに従事した「矢作部」がいたといわれ、また尾先が八枚に分れた鶯の名所であったことから地名となったとも伝えられる。 社殿の横には「矢尾城址」碑がある。
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