二の郭へのアーチ門(城外側)
二の郭へのアーチ門と、右側は二の郭物見台
2個のアーチ石が組み合わされたもので、表と裏側のアーチ石間にはクサビ石がはめ込まれている
アーチ門の上部
二の郭へのアーチ門(城内側)
二の郭から一の郭へのアーチ門(二の郭側)(左の石垣は一の郭の城壁)
二の郭から一の郭へのアーチ門
アーチ門のクサビ石(二の郭側)
一の郭の城壁(緩やかなカーブを描く美しい城壁)(合成パロラマ写真)
一の郭の礎石
殿舎跡といわれ、屋根は板葺きか茅葺きであったと推定されている 
礎石
一の郭から眺める切石積みの美しい城壁
一の郭城壁
一の郭城壁
一の郭城壁
一の郭の城壁から石門の眺望
一の郭と二の郭の城壁の眺望
二の郭の城壁
美しい湾曲を画く二の郭の城壁
二の郭隅の石垣
一の郭への門を入り左側は行止りになっている
二の郭城壁上から石門を眺める
カーブが美しい城壁
二の郭の城壁
S字カーブを画く二の郭の城壁
二の郭城壁の隅
二の郭の城壁と一の郭の城壁
二の郭の城壁
二の郭内の風景
整然と積上げられた石切積みの石垣
二の郭と一の郭の城壁
二の郭内部の風景(行止りとなっている)
二の郭内部の風景
二の郭の城壁
湾曲している二の郭の石垣
二の郭の石垣
日本のお城へ H.19年の登城へ  沖縄県のお城へ
座喜味城(ざきみぐすく)は、15世紀の初頭築城家として名高い護佐丸(ごさまる)が、築いた城といわれている。
護佐丸は当初、座喜味の北東約4kmにある山田グスクに居城していたが、1416年(1422年の説もあり)中山王の尚巴志(しょうはし)の北山や南山攻略に参戦し、三山統一、いわゆる琉球王国の統一に大いに活躍した武将である。
滅びた北山の旧勢力を見張る目的で座喜味城を築城したと言われている。北山攻略後は戦後処理のため一時北山城にとどまったといわれ、その間に座喜味の地へ築城を開始したという。
城址は座喜味部落北側の小高い丘、標高120m余の名護層からなる台地を石灰岩の切石積で取り囲んで築かれており、城は2つの郭からなる連郭式の形態になっている。城郭内の面積は約4,012.5uで、沖縄のグスクとしては中規模である。
この城には一の郭と二の郭にアーチ石のかみ合う部分、門の表と裏両面にクサビ石がはめられており、他のグスク等には類例がみられない。このことから座喜味のアーチ石門が現存するアーチの沖縄で最古のものと見られている。
座喜味城址は1972年の本土復帰に伴なって国の史跡に指定され翌年の10月から沖縄県で初めて史跡整備事業が文化庁と県の補助を受けて開始された。
整備事業に伴う遺構発掘調査がなされ成果を上げた。出土遺物は、グスク系土器と須恵器(すえき)が少量、中国製陶磁器や古銭などがあり、これらの出土品中最も多いのは中国製の青磁と陶器で、これらの中国陶磁からみると、15世紀から16世紀までのものがみられることから、座喜味城は護佐丸が1440年に中城城へ移った後も使用されたと考えられる。
遺構については一の郭の北側に間口16.58m奥行14.9の石組みが発掘され、この中に建物が建っていたと思われる。しかし瓦等は出土しない事から屋根は板葺か茅葺の建物であつたと推定され、また一の郭内の南側では城壁を作る以前の柱穴群も発見され、出土遺物からそれほどの時代差はないものの、一の郭において2つの時期の遺構が確認された。
城址はは第二次大戦において、一の郭内に日本軍の高射砲陣地が気築かれ、戦後も米軍のレーダー基地が設立されたが、整備の始まった翌年返還された。城壁は1982年に修復を完了した。
城壁の上に立つと首里・那覇を始め本島西側本部半島や東支那海に浮かぶ慶良間諸島・久米島・伊江島・伊平屋諸島が眺望できる要害の地にある。

                                           現地の城址説明看板から
座喜味城をゆく
(ざきみグスク)