近撮_2014.12
このページには最近作を月ごとに撮影順に区分なしで掲示しております。
(取り急ぎにつき、ラージサイズにならないもの、コメントの無いものもありますが順次追加します)
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フクマルコッコ_伊豆七条

大晦日の晩に村の家々を廻る「福丸迎え」とう行事が山添、天理地方を中心に行われていますが、盆地部では多分ここ大和郡山の伊豆七条町だけではないかと思われます。ここでは子供だけで夕方から全戸を廻り「フクマルにきました」と訪ねます。迎えるお家では門口や中庭に藁を準備し点火されます。子供達は青竹でその火を突きながら「フクマルコッコー、フクマルコッコー」と数十回唱和します。(福神よ来い来い、ということかと推測)終わると駄賃やお菓子を戴き、「良いお年を」と言って次のお家へ向かいます。



[フクマルコッコ1_伊豆七条]

(2014.12.31)(大和郡山市)



[フクマルコッコ2_伊豆七条]

今年はあいにく風が強く、大方のお家では火をつけずに子供を迎えておられました。裏の畑でやってくれるかとおっしゃるお家もあります。
(2014.12.31)(大和郡山市)


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砂モチ_佐紀神社

お正月迎えとして境内に砂を持ち寄り小山のように並べる「砂モチ」と言う行事がいくつかの神社で行われています。私の知っている限りでは奈良市、大和郡山市を中心に5カ所ぐらい。
どういう意味か、謂れかを神社で作業奉仕なさっている方にお聞きしても、よくわからんとおっしゃることもあります。
これは「砂モチ」と言われる事が多く、昔はお詣りの人たちのわら草履に土がついて年間にかなり土が減ったそうです。それで年末にその補充の意味で砂を持ち寄ったのが謂れのようです。



[砂モチ1_西畑佐紀神社]

(2014.12.30)(奈良市)



[砂モチ2_西畑佐紀神社]

(2014.12.30)(奈良市)



[砂モチ2_西畑佐紀神社]

(2014.12.30)(奈良市)


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おん祭_春日大社

長承年間には長年にわたる大雨洪水により飢餓が相次ぎ、天下に疫病が蔓延したので、時の関白藤原忠通公が万民救済のため、若宮の御霊威にすがり、保延元年(1135年)旧暦二月二十七日、現在地に大宮(本社)と同じ規模の壮麗な神殿を造営しました。若宮の御神助を願い、翌年(1136年)旧暦九月十七日、春日野に御神霊をお迎えして丁重なる祭礼を奉仕したのが、おん祭の始まり。御霊験はあらたかで長雨洪水も治まり晴天が続いたので、以後五穀豊穣、万民安楽を祈り大和一国を挙げて盛大に執り行われ、八百七十有余年にわたり途切れることなく今日に至っています。

(これらの奉納芸能は「春日若宮おん祭の神事芸能」として国指定重要無形民俗文化財に指定されています)

説明コメントは春日大社発行の解説書、ホームページを参考、引用させていただいております。
詳しくは春日大社の公式サイトをご参照ください。

12月15日〜18日にわたって多彩に行われます。同時進行のものもあり、また撮影禁止の神事や撮影のはばかれるものもあり全容は記録できません。本年撮影させていただいたその一部を御覧いただきます。出来るだけ違う場面をアップするようにしていますので、過年度の分についてもご参照ください。


大宿所祭

大宿所は、おん祭の願主役(がんしゅやく)、御師役(おしやく)、馬場役(ばばやく)を勤める大和士が、神事奉仕に当って精進潔斎を行う参籠所である。(旧遍昭院趾)「センジョ(遍昭)行こう マンジョ(万衆)行こう センジョの道に何がある 尾のある鳥と尾のない鳥(兎)と センジョ行こう マンジョ行こう」と子供に囃されたのは懸物(かけもの)のことで大和の大小名より献じられた雉や兎が懸け並べてお供えされたのである。現在も地元篤信者による懸物が境内に寄進されている。
 その他境内には、渡り武具といわれる野太刀、馬長児の笹などが人目をひき、ご殿の中では神前の珍しい献菓子や流鏑馬勤仕の稚児よりお供えされる稚児の餅、装束類が所狭しと並べられている。




[御湯立1_大宿所祭]

おん祭の無事執行を祈願して行われる大宿所祭の前に参勤者を清める御湯立(みゆたて)神事。勤められる巫女は特別な一族だけに伝承されています。唱詞(となえことば)を奏上しながらたぎる湯釜から笹で湯を振りまかれます。
(2014.12.15)(奈良市)



[御湯立2_大宿所祭]

15日午後2時半からは地元各商店街による大宿所詣行列の為に、午後4時半からは旧儀による大和士の為に、また午後6時からは一般参拝者の為に「御湯」が立てられる。
(2014.12.15)(奈良市)



[御湯立3_大宿所祭]

(2014.12.15)(奈良市)



[御湯立4_大宿所祭]

(2014.12.16)(奈良市)



[サンバイコ_大宿所祭]

湯立巫女の腰に巻くわらの帯は“サンバイコ”と言い安産の霊験あらたかなりとのこと。
(2014.12.15)(奈良市)



[お祓い_大宿所祭]

(2014.12.15)(奈良市)



[御湯立の釜_大宿所祭]

(2014.12.15)(奈良市)



[奉納の品_大宿所祭]

大宿所祭のご殿の神前には珍しい献菓子や流鏑馬勤仕の稚児よりお供えされる稚児の餅、装束類が所狭しと並べられている。上の段に嶋台、下の段に盃台、後方の神前には献菓子(けんがし)と呼ばれる大きな奉納の品(画面では後方で見にくい)が供えられています。
(2014.12.15)(奈良市)


2010年の献菓子


暁祭

満天の星空のもと寒気が一入身にしみる午前1時、庭燎に火が入って暁祭がおごそかに執行される。 遷幸の儀の際、行宮の前には神を迎えた事を示す植松(うえまつ)が立てられ、ご殿の中央には瓜灯籠が幽かな光を投げかけているその神前には、海川山野の品々が献じられる。続いて旧祢宜大宮家より古式による「素合の御供(すごのごく)」が奉られ、そして、宮司の祝詞に続いて社伝神楽が奏せられる。清らかな歌声と鼓や笛の音が春日野に静かに鳴りわたっていく。



[神楽奉納_暁祭]

御旅所仮御殿に入御の後、御殿の中央の瓜灯籠に灯を灯し暁祭が執り行われます。献饌、神事に続き巫女による社伝神楽が奏せられます。
(2014.12.17)(奈良市)


お渡り式

多くの例では、神様が御旅所へ遷られる行列を「お渡り式」と言われますが、おん祭のお渡り式は、すでに遷幸の儀により御旅所に遷られている若宮のもとへ、祭礼に加わる人々や芸能集団が社参する行列のことを言います。近年に加わったという新しいものもありますが、第一番の日使(ひのつかい)から十二番の大名行列までの多くは古式にのった伝統の行列。



[大和士(やまとざむらい)_お渡り式]

射手児を先頭に流鏑馬を奉納した大和武士の伝統を受け継いでいるのが、願主(がんしゅ)役・御師(おし)役・馬場役 ・大和士などの一団である。おん祭はもとは興福寺衆徒が主宰していたが、衆徒(僧兵)国民(武士)が大小名化すると、若宮祭礼流鏑馬願主人を名乗り、ついにはおん祭全体の主催者のようになった。彼らは六党に分れて交代で願主人等を勤めていたが、豊臣秀吉の全国制覇で壊滅してからも、六党の一つ長谷川党の法貴寺氏人が願主人に仕立てられ、さらに明治維新後は旧神領の人々がこれを勤めて現在に至っている。
(2014.12.17)(奈良市)



[馬長児(ばちょうのちご)_お渡り式]

山鳥の尾を頂に立てたひで笠をかぶり、背中に牡丹の造り花を負った騎馬の美しい少年は馬長児。もとは興福寺学侶が頭人となり稚児を出していた。そのうしろには五色の短冊をつけた笹笠を持ち、龍の造り物を頭にいただいた従者が二人ずつ従う。
(2014.12.17)(奈良市)



[奈良巫女_お渡り式]

白の被衣(かずき)をいただき風流傘を差しかけながら騎馬で進む巫女。春日大社では巫女を伝統的にミカンコと呼ぶ。拝殿八乙女、辰市の神子、郷の神子、八島の神子、奈良神子が参勤する。
(2014.12.17)(奈良市)



[大名行列1_お渡り式]

大名行列は、江戸時代からお渡りに加わったもので、武家の祭礼の伝統を大和国内の郡山藩・高取藩などが受け継いで供奉した。一時衰退してい たものを昭和54年に奈良市内の青年達の手によって大名行列保存会が 結成され、「ヒーヨイヤナー」「ヒーヨイマカセー」「エーヤッコラサノサー」の若々しい掛け声が聞かれるようになった。その後、子供大名行列や郡山藩の行列も整えられ、お渡りの最後をしめくくるにふさわしい心意気を見せている。
(2014.12.17)(奈良市)



[大名行列2_お渡り式]

(2014.12.17)(奈良市)



[競馬_お渡り式]

赤と緑の錦地の装束に身を固め、細えい冠をつけた騎者による競馬。かっては5組行われたが現在は3組により馬出橋から勝負榊までを競い合う。競馬の勝負によりお旅所祭での左舞の蘭陵王(らんりょうおう)と右舞の納曽利(なそり)の順番が決められる。
(2014.12.17)(奈良市)



[稚児流鏑馬(ちごやぶさめ)_お渡り式]

赤の水干の揚児(あげのちご)、白の水干の射手児(いてのちご)と呼ばれる稚児による流鏑馬。一の的から三の的まで順次射ながら進んで行く。
(2014.12.17)(奈良市)


お旅所祭

お旅所には正面の一段高い所に若宮神の行宮(あんぐう)があり、その前に小高く約五間(9メートル)四方の芝舞台がある。その前には左・右に太鼓が据えられ、それをとり囲むように周囲に幄舎が設けられている。
 お旅所祭は午後2時30分頃に始まる。最後の大名行列のかけ声が、まだ参道にこだましているなかを神職が参進し、左・右の太鼓が鼕々と打ち鳴らされ、奏楽のうちに神様にお供え(神饌)が捧げられる。このお供えは、お米を青黄赤白に染め分けて飾る「染御供(そめごく)」という珍しいものなどである。
 続いて宮司がご幣を捧げ、祝詞を奏上してのち行宮の下に座を進め、神職が退いたあと日使の奉幣・祝詞があり、各種団体の代表、稚児や願主投、大和士などの拝礼がおこなわれる。
 このあと午後3時30分頃から神楽が舞われる。そして、田楽・細男・猿楽(能楽)・舞楽など、午後11時近くまで各種神事芸能が奉納される。まさに生きている芸能の歴史を目のあたりにするようで、けだし圧巻である。



[奉幣_お旅所祭]

(2014.12.17)(奈良市)



[社伝神楽1_お旅所祭]

春日大社伝神楽は、御巫(みかんこ)による八乙女舞(やおとめまい)を骨子としたもので、その源は遠く平安時代初期の延喜年間(901年〜22年)にまで遡ることができます。伴奏は地方(じかた)といい、御巫の上臈が琴師を勤め、歌を唄う本歌の役が笏拍子を打ち、笛役は神楽笛を奏します。(付歌は銅拍子と小鼓を打ちます)それぞれ神職が務めます。(化粧も、額に富士額、又襟足に三本足を水で溶いた練白粉を用いて筆で描き、天井眉をつけ、更に下唇に紅をさすなど、独特な古式を伝えています。簑毛(付け毛)を銀色の丈長で結いまとめ)造花の藤花の挿頭にした御巫は、たいへん優雅です。
(2014.12.17)(奈良市)



[社伝神楽2_お旅所祭]

(2014.12.17)(奈良市)



[東遊(あずまあそび)_お旅所祭]

神楽が終って、行宮の瓜灯籠と舞台の周囲六ヶ所に設けられた篝火に火が入れられると、東遊が始まる。
安閑天皇の御代、駿河国の有産浜に天女が降り、舞い遊んだという故事から起った東国の風俗舞といわれる。
青摺の袍に太刀を佩き、巻纓の冠をいただいた舞人四人(童児)が凛々しく「駿河舞」と「求子舞」の二曲を舞う。子どもが舞うのは他に例がなく、珍らしい。
(2014.12.17)(奈良市)



[田楽座_お旅所祭]

田楽の起源については、神に五穀豊穣を祈る楽であるとか、農民を慰労するために演じた所作であるとか、田舞から出たもの、又は散楽(奈良時代に中国から伝わった曲芸の類)から転じたものなど種々の説がある。
春日田楽はおん祭が行われた当初から奉納されており、かつては田楽能もあり、名人もいた。世阿弥が12才のとき、おん祭前日に行われる装束賜りの能に田楽の喜阿弥が尉を演じるのをわざわざ見に行って感服したと「申楽談義」にのべている。
はじめは本・新座それぞれからの奉幣で、一が五色の大幣を各一束ずつ神前に献じる。次いで「中門口」の囃子を奏し、曲芸の「刀玉」「高足」となる。このあと「もどき開ロ、立合舞」という短い能を演じる。
(2014.12.17)(奈良市)



[細男(せいのおざ)1_お旅所祭]

神功皇后の故事にちなむもので、筑紫の浜で、ある老人が「細男を舞えば磯良と申す者が海中より出て干珠、満珠の玉を献上す」と言ったのでこれを舞わしめたところ、磯良が出てきたが顔に貝殻がついていたので覆面をしていたという物語りが伝わっており、八幡神系の芸能と考えられている。
白い浄衣を着けた六人の舞人が白い布を目の下に垂らし、うち二人が小鼓を胸から下げ、二人は素手でいる。あとの二人は笛の役である。小鼓を打ち、袖で顔を覆いながら進み、また退きして拝舞する素朴なものであるが、独得の雰囲気をかもし出す実に神秘的な舞である。わが国芸能史のうえでも他に遺例のない貴重なものである。
(2014.12.17)(奈良市)



[細男(せいのおざ)2_お旅所祭]

(2014.12.17)(奈良市)



[和舞(やまとまい)1_お旅所祭]

和舞は大和の風俗舞で、春日社では古くから行われてきた。今、神主舞が四曲、諸司舞八曲及び進歌・立歌・柏酒歌・交替歌・神主舞前歌等が伝えられ ている。
神主舞は一人または二人で、諸司舞は四人または六人にて舞われる。舞人は巻纓の冠に採物として榊の枝や桧扇をもち、青摺の小忌衣をつけ虎皮の尻鞘で飾られた太刀を佩く、諸司舞の四段以降は小忌衣の右袖をぬぐ、歌方は、和琴・笏拍子(歌)・神楽笛・篳篥及び付歌・琴持にて行われる。
おん祭では神主舞一曲、諸司舞二曲が舞われるのが近年の例となっている。
(2014.12.17)(奈良市)



[和舞(やまとまい)2_お旅所祭]

(2014.12.17)(奈良市)



[喜徳_お旅所祭]

漢の宣帝の神爵年間に匈奴の日逐王が漢に降伏し貴徳侯になったという故事によっている。舞人は白い隆鼻白髭の面をつけ、別様の鳥甲をかぶり、毛べりの裲襠装束を着け、太刀を佩き、鉾をもって舞う。その舞い振りは気品高く勇壮である。破と急とが伝わっている。
散手と番舞(つがいまい)として「中門遷(うつり)の舞楽」といい、かつて興福寺一乗院宮、大乗院御門跡、春日社司らがこの間に出仕したという。
(2014.12.17)(奈良市)



[蘭陵王(らんりょうおう)_お旅所祭]

中国・北斉の王、蘭陵王長恭という勇将が戦の終ったとき、諸軍士と平和を寿いだといわれている舞である。一説には印度から伝わった曲であるともいわれている。
長恭は美青年であったため戦場におもむく時は、いつも恐ろしい面をつけ軍を指揮し、その武勇は轟いていたという。
舞人は竜頭を頭上にし、あごをひもで吊り下げ金色の面をつけ、緋房のついた金色の桴をもち、朱の袍に雲竜を表した裲襠装束をつけて勇壮に舞う、舞楽の中でも最も代表的なものの一つである。
(2014.12.17)(奈良市)



[納曾利(なそり)_お旅所祭]

伝来不詳であるが、竜の舞い遊ぶさまを表した曲といわれ、破と急の二楽章から成る曲である。竜を象どった吊りあごの面をつけ、毛べりの裲襠装束を着け銀色のをの桴をもって舞う。
蘭陵王とともに一対をなし、競馬の勝負舞として右方の勝者を祝って奏されるものである。
(2014.12.17)(奈良市)


後宴能

おん祭の奉仕者の労をねぎらうために行われるお能。前日の夜中に若宮神が本殿へ戻られたあとに行われるので、御殿を背に奉仕者、参観者の方に向かって演じられます。冬陽が差す中、芝舞台に板敷きの舞台でおこなわれます。



[後宴能]

(2014.12.17)(奈良市)



[羽衣1_後宴能]

本年の能の演目は「羽衣」「熊坂」、狂言は「太刀奪」でした。
(2014.12.17)(奈良市)



[羽衣2_後宴能]

(2014.12.17)(奈良市)



[熊坂_後宴能]

(2014.12.17)(奈良市)


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いの子暴れ祭り_高田

桜井市の高田地区に伝わる亥の子暴れ祭り。亥の子信仰は、田の神は収穫が終わると山へ戻って山の神となるとされ、全国各地にも伝わっていますが、多くは石を大地に打ちつけるなどですが、当地、高田の亥の子あばれ祭りはちょっと変わっており、子供達が、お仮屋をつぶして供え物を奪い合ったり、お膳を蹴散らしたりと大暴れ。夜になると、神棚の燈明を消しにかかります。おとながそれを阻止し、何度も点火しますが、わらを投げてそのじゃまをします。
(県指定無形民族文化財)



[いの子暴れ祭り_高田]

子供達に用意されたお膳をいっせいに蹴り散らかします。昔は頭屋さんの座敷でしていたとか。今は集荷場にブルーシート張って。
(2014.12.7)(桜井市)


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雨の手向山八幡宮

おん祭の宵宮詣の前に御出仕の大和士や流鏑馬稚児などが装束をつけて手向山八幡宮に詣られお祓いを受けられますが、今年はあいにくの雨で、宵宮詣でのあと平服でお参りになりました。



[雨の手向山八幡宮]

天気なら華やかににぎにぎしい境内なんですが。
(2014.12.16)(奈良市)


雪の御影堂_高野山





[雪の御影堂1_高野山]

(2014.12.6)(高野町)



[雪の御影堂2_高野山]

(2014.12.6)(高野町)



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