おん祭_春日大社

長承年間には長年にわたる大雨洪水により飢餓が相次ぎ、天下に疫病が蔓延したので、時の関白藤原忠通公が万民救済のため、若宮の御霊威にすがり、保延元年(1135年)旧暦二月二十七日、現在地に大宮(本社)と同じ規模の壮麗な神殿を造営しました。若宮の御神助を願い、翌年(1136年)旧暦九月十七日、春日野に御神霊をお迎えして丁重なる祭礼を奉仕したのが、おん祭の始まり。御霊験はあらたかで長雨洪水も治まり晴天が続いたので、以後五穀豊穣、万民安楽を祈り大和一国を挙げて盛大に執り行われ、八百七十有余年にわたり途切れることなく今日に至っています。
説明コメントは春日大社発行の解説書、ホームページを参考、引用させていただいております。
詳しくは春日大社の公式サイトをご参照ください。

12月15日〜18日にわたって多彩に行われます。撮影禁止の神事や撮影のはばかれるものもあり全容は記録できません。本年撮影させていただいたその一部を御覧いただきます。出来るだけ違う場面をアップするようにしていますので、過年度の分についてもご参照ください。

大宿所祭


[御湯立1_大宿所祭]
おん祭の無事執行を祈願して行われる大宿所祭の前に参勤者を清める御湯立(みゆたて)神事。勤められる巫女は特別な一族だけに伝承されています。唱詞(となえことば)を奏上しながらたぎる湯釜から笹で湯を振りまかれます。湯立巫女の腰に巻くわらの帯は“サンバイコ”と言い安産の霊験あらたかなりとのこと。
(2013.12.15)(奈良市)


[御湯立2_大宿所祭]
(2013.12.15)(奈良市)


お渡り式

多くの例では、神様が御旅所へ遷られる行列を「お渡り式」と言われますが、おん祭のお渡り式は、すでに遷幸の儀により御旅所に遷られている若宮のもとへ、祭礼に加わる人々や芸能集団が社参する行列のことを言います。近年に加わったという新しいものもありますが、第一番の日使(ひのつかい)から十二番の大名行列までの多くは古式にのった伝統の行列。


[神子_お渡り式]
白の被衣(かずき)をいただき風流傘を差しかけながら騎馬で進む神子。春日大社では巫女を伝統的にミカンコと呼ぶ。拝殿八乙女、辰市の神子、郷の神子、八島の神子、奈良神子が参勤する。
(2013.12.17)(奈良市)


[田楽_お渡り式]
 華やかな五色のご幣をおし立てて、綾藺笠(あやいがさ)をつけ、編木(ささら)・笛・太鼓を持 つ集団が田楽座である。おん祭で行われる芸能のうちで最も興福寺と深い関係をもってきた芸能集団で、 かつては祭礼当日までのさまざまな行事に加わっていたが、今でも16日には本社及び若宮社への宵宮詣、17日に はお渡りに先立って初宮神社(市内鍋屋町)への初宮詣、松の下・お旅所と各所で芸能の奉納を繰り広げている。奈良一刀彫りの起源といわれる人形を飾った大きな花笠を頭上に乗せた笛役の二藹(ろう)はひときわ人目を引く。松の下では「中門ロ」「刀玉(かたなだま)」「高足」等を演じる。(春日大社HPより引用)
(2013.12.17)(奈良市)


[子供大名行列_お渡り式]
大名行列は、江戸時代からお渡りに加わったもので、武家の祭礼の伝統を大和国内の郡山藩・高取藩などが受け継いで供奉した。一時衰退してい たものを昭和54年に奈良市内の青年達の手によって大名行列保存会が 結成され、「ヒーヨイヤナー」「ヒーヨイマカセー」「エーヤッコラサノサー」の若々しい掛け声が開かれるようになった。その後、子供大名行列や郡山藩の行列も整えられ、お渡りの最後をしめくくるにふさわしい心意気を見せている。(春日大社HPより引用)
(2013.12.17)(奈良市)


[揚児(あげのちご)_お渡り式]

赤の水干に笠(つづらがさ)をかぶり、背に箙(えびら)を負い重藤(しげとう)の弓を手にした少年は揚児(あげのちご)・射手児(いてのちご)である。大和国内の士らは華やかな流鏑馬を神前で繰り広げた。このいわば稚児の流鏑馬ともいえるものは、かがり火をたいて夜中に催され、この時神前ではこれの前に行われた競馬の勝負の舞として舞楽が奉納されたという。
 旧儀通り揚児を先頭に都合三騎の稚児が、一の鳥居内の馬場本を祝投扇(いわいのなげおうぎ)の所作をおえて走り出し、一の的より三の的まで順次射ながら進んでいく。(春日大社HPより引用)
(2013.12.17)(奈良市)



松の下式

お渡り式の途中、一の鳥居を入った参道の南側に立つ影向の松(ようごうのまつ)の前でお渡りの一行が影向の松と頭屋の児に向かって芸能の一部を披露しご挨拶をされます。



[猿楽_松の下式]
(2013.12.17)(奈良市)


[細男(せいのう)_松の下式]

(2013.12.17)(奈良市)


[笛吹_田楽の二藹(にろう)_松の下式]
(2013.12.17)(奈良市)


[田楽_刀玉(かたなだま)_松の下式]
(2013.12.17)(奈良市)


お旅所祭

お旅所には正面の一段高い所に若宮神の行宮(あんぐう)があり、その前に小高く約五間(9メートル)四方の芝舞台がある。その前には左・右に太鼓が据えられ、それをとり囲むように周囲に幄舎が設けられている。
 お旅所祭は午後2時30分頃に始まる。最後の大名行列のかけ声が、まだ参道にこだましているなかを神職が参進し、左・右の太鼓が鼕々と打ち鳴らされ、奏楽のうちに神様にお供え(神饌)が捧げられる。このお供えは、お米を青黄赤白に染め分けて飾る「染御供(そめごく)」という珍しいものなどである。
 続いて宮司がご幣を捧げ、祝詞を奏上してのち行宮の下に座を進め、神職が退いたあと日使の奉幣・祝詞があり、各種団体の代表、稚児や願主投、大和士などの拝礼がおこなわれる。
 このあと午後3時30分頃から神楽が舞われる。そして、田楽・細男・猿楽(能楽)・舞楽など、午後11時近くまで各種神事芸能が奉納される。まさに生きている芸能の歴史を目のあたりにするようで、けだし圧巻である。(春日大社HPより引用)



[献饌1_お旅所祭]
(2013.12.17)(奈良市)


[献饌2_お旅所祭]
(2013.12.17)(奈良市)


[神楽_お旅所祭]
春日社伝神楽は、八人の巫女による八乙女舞を骨子としたもので、その源は遠く平安時代初期の延喜年間(901〜22)にまで遡ることができる。伴奏は地方(じかた)といい、芝舞台の東側に西面して着座するが、巫女の上藹が琴師を勤め、歌を唱う本歌の役が笏拍子を打ち、付歌は銅拍子と小鼓を打つ。笛役は神楽笛を奏し、それぞれ神職が勤める。
 正装した六人の巫女が、「進み歌」に合わせて、楽舎から舞台まで敷き延べられた茣座の上を、桧扇を胸にかざしてしずしずと進む。舞は、先ず二人舞の「神のます」、次に白拍子舞の進み歌「鶴の子」に合わせて一の巫女が楽舎より舞台に進み出で一人舞の「松のいはひ」を舞う。次に六人舞の「宮人」、四人舞の「祝言(せんざい)」と合計四曲が舞われ、「立ち歌」によって退下する。お旅所における神楽は、春日大社の多くの祭典のなかでも最も大儀で華やいだもので、その装束も最も格式あるものを用いる。(春日大社HPより引用)
(2013.12.17)(奈良市)


[細男(せいのう)_お旅所祭]
神功皇后の故事にちなむもので、筑紫の浜で、ある老人が「細男を舞えば磯良と申す者が海中より出て干珠、満珠の玉を献上す」と言ったのでこれを舞わしめたところ、磯良が出てきたが顔に貝殻がついていたので覆面をしていたという物語りが伝わっており、八幡神系の芸能と考えられている。
 白い浄衣を着けた六人の舞人が白い布を目の下に垂らし、うち二人が小鼓を胸から下げ、二人は素手でいる。あとの二人は笛の役である。小鼓を打ち、袖で顔を覆いながら進み、また退きして拝舞する素朴なものであるが、独得の雰囲気をかもし出す実に神秘的な舞である。わが国芸能史のうえでも他に遺例のない貴重なものである。(春日大社HPより引用)
(2013.12.17)(奈良市)


[和舞(やまとまい)_お旅所祭]
和舞は大和の風俗舞で、春日社では古くから行われてきた。今、神主舞が四曲、諸司舞八曲及び進歌・立歌・柏酒歌・交替歌・神主舞前歌等が伝えられ ている。
 神主舞は一人または二人で、諸司舞は四人または六人にて舞われる。舞人は巻纓の冠に採物として榊の枝や桧扇をもち、青摺の小忌衣をつけ虎皮の尻鞘で飾られた太刀を佩く、諸司舞の四段以降は小忌衣の右袖をぬぐ、歌方は、和琴・笏拍子(歌)・神楽笛・篳篥及び付歌・琴持にて行われる。
 おん祭では神主舞一曲、諸司舞二曲が舞われるのが近年の例となっている。(春日大社HPより引用)
(2013.12.17)(奈良市)


[舞楽_旅所祭]

 舞楽は、飛鳥・白鳳から奈良時代にかけて古代朝鮮や中国大陸から伝えられ、わが国において大成されたもので、のちに日本で作られたものも含めて、その伝来や特徴から左舞及び右舞に分けられている。
 左舞は中国や印度支那方面から伝えられたもので、赤色系統の装束を着け、右舞は朝鮮地方や渤海国等から伝えられたもので、緑色を基調とした装束で舞われ、左舞は唐楽、右舞は高麗楽とも呼ばれ、演奏は普通、左舞・右舞を一対(番舞という)とし、その何組かが舞われるのが例となつている。おん祭では五番、十曲が舞われる。
 これらの舞楽は、天下の三方楽所といわれた京都、奈良、天王寺に伝わり、それぞれ特色ある芸能をうけついで来た。現在、宮中の楽部にはこの三方から楽家が奉仕されているが、奈良は春日大社を中心に社団法人南都楽所がこの南都舞楽の伝統をうけついでいる。(春日大社HPより引用)
(2013.12.17)(奈良市)



[納曽利(なそり)_お旅所祭]
伝来不詳であるが、竜の舞い遊ぶさまを表した曲といわれ、破と急の二楽章から成る曲である。竜を象どった吊りあごの面をつけ、毛べりの裲襠装束を着け銀色のをの桴をもって舞う。
 蘭陵王とともに一対をなし、競馬の勝負舞として右方の勝者を祝って奏されるものである。(春日大社HPより引用)
(2013.12.17)(奈良市)


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