会津若松城をゆく
別名・鶴ヶ城
 会津若松城は、会津磐梯山に抱かれた会津若松市にあり、別名鶴ヶ城と言われている。若松城はその歴史は古く南北朝時代の蘆名直盛(あしななおもり)によって1385年(元中1)黒川に館を築造し原型が築かれた伝えられ、以来会津地方を治める葦名氏歴代の本拠地として黒川城と呼ばれた。
戦国時代になり、蘆名氏は奥州制覇をもくろむ伊達政宗と死闘をくりひろげたが敗れ1度目の落城を経験黒川城は伊達氏のものとなる。
しかし、1590年小田原の陣に遅参した伊達政宗は会津を没収され、黒川城に蒲生氏郷(がもううじさと)が入り、城下の名前を若松、城の名前を鶴ヶ城と改め人心の一新をはかった。
 氏郷は1593年に七層の天守閣を築くが、蒲生氏は宇都宮に転封し、越後から上杉景勝が入城する。関が原の合戦で西軍についた上杉氏は会津から米沢に移され、再び蒲生氏が入城。
 1627年には伊予松山から加藤嘉明が会津に入封する。嘉明は七層の天守閣を五層に改修する。1643年には三代将軍徳川家光の異母弟の保科正之が出羽より入封し、会津二十三万石の藩祖となる。保科氏は後、松平性を名乗ることを許される。正之は将軍家への忠誠をうたう「家訓十五箇条」を定め、この教えが幕末の会津藩の進む道を決めたといえる。
1862年藩主となった松平容保は徳川方として戊辰戦争を戦い、会津若松城は官軍の猛攻を1ヶ月にわたって凌いだが会津武士たちの奮戦もかなわず、2度目の落城となった。戊辰戦争では特に白虎隊の悲劇の舞台となるなど、人々の記憶に強烈な印象を与えた城である。
その後、1870年(明治3)城の取壊しが始まり、1874年(明治7)廃城となり石垣と堀を残し、文字どおり荒城となった。
現在の天守閣は1965年(昭和40)に再建された。その姿は往時の姿を忠実に再現している。白を基調とした非常にスマートな姿が美しい。
2001年(平成13)には、天守閣から走長屋が延び、重厚な鉄(くろがね)門、木造の南走長屋、干飯櫓へと続く一連の面影を復元した。
天守閣からは磐梯山や、白虎隊の悲劇の地となった飯盛山がよく見える。私が訪れた日は生憎と雨が激しく確認することは出来なかった。
撮影 2008.4.19
会津若松城内マップ
若松城史蹟碑(大手門前にある)
北出丸内から枡形を見る
復興天守閣(郷土博物館)
太鼓門跡
北出門から本丸に通じる大手門(追手門)のことで、そこには多聞櫓と呼ばれた櫓が建てられ、と背胴の径5尺8寸(約1.8m)の大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用されていたところから太鼓門とよばれていた。
遊 女 石
7.5トンと推定される城内最大の石材。太鼓門内西面内側の石垣の一部。あまり重たい石なのでなかなか運ぶことが出来なかったので遊女の歌や踊りに励まされて動かしたと伝えられている。
枡   形
この石垣は、今から約370年前の加藤時代に整備された石垣です。若松城の大手門として堅固な石垣に囲まれ(枡形)、さらに右に曲がった場所には内部を見透しされないように門(北出丸大手門)ありました。この枡形は敵を三方から攻撃できる利点がありました。
鐘 撞 堂
時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂で、その鐘は1747年(延享4)若松の鋳工早山掃部介安次(そうやまかもんのすけやすつぐ)等の作成として知られ、鐘の撞き方は江戸流であった。
1868年戊辰の役には、ここに西軍の砲火が集中し、時守が相次いで斃れたにもかかわらず、開城の最後まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した。
鉄(くろがね)門
北出丸から本丸帯郭を経て本丸に通じる堅固な櫓門形式の表門
干飯(ほしい)櫓
武者走り
城内への大手門となる太鼓門の渡り櫓や帯郭の石垣の上への昇降が容易にできるように、左右に分かれた石段が設けられています。ここは「武者走り」と呼ばれ、鶴ケ城石垣の特色の一つにあげられています 
本丸跡から天守を眺める
本丸跡
馬洗石
本丸南側土手寄りに、藩公が馬術を稽古するための馬場があった。この石は馬の口洗いのために用いられたといたえられている。
月見櫓跡
櫓は、二重の塗込櫓で常に武器が収められていたところでしたが、城内からの月見の場所としては絶好の櫓でもあったことから、この名前がつきました。 城下南方の湯川や天神橋方面の搦手側の物見櫓として、また内濠牛沼沿の本丸石垣外部の横矢掛りとしても重要な櫓でした。
茶壺櫓跡櫓台
かっては、茶器類・武器類を収めた二重の櫓があり、反対側にあった弓櫓とともに、旧大手口であった廊下橋の横矢掛りとして重要であった 。北側部分の石垣は高さ約19mの扇勾配となっています。
御三階石垣台
茶壺櫓台上から見た廊下橋

凹部を含めた土橋は“水戸違い”(ダムの役割)となり、左右の堀の水位が違います

廊下橋と枡形虎口
二の丸から本丸帯郭東側への五軒丁堀に掛る橋で、往時は、敵が攻め寄せた時には切り落とし、また、見透かされないように屋根の有る構造でした
廊下橋を渡った所の石垣
廊下門の南側石垣上から枡形を見下ろす
会津若松城天守閣入口
天守5階から見た(南方向)走長屋(北→南)鉄門・干飯(ほしい)櫓
天守閣5階から見た本丸跡
天守5階から見た走長屋・鉄門・干飯櫓と会津市内風景
天守閣から本丸埋門・帯曲輪
天守閣から茶亭「麟閣「をの眺める
太鼓門・椿坂と北出丸(武徳殿が見える)
遠くに霞む磐梯山と右下が飯盛山。
軒門跡の石垣
城内に建てられている荒城の月碑
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