首里城は、474年に及ぶ琉球統一王朝の「王城」がこの首里城である。25人の王がこの城に君臨した。
1420年(応永27)代、尚巴志(しようはし)王による築城とされる。それまで琉球は「中山」(ちょうざん)・「南山」(なんざん)・「北山」(ほくざん)に分かれた「三山時代」であり、中央部を支配する中山王の居城は浦添城であつた。
南山の一角から出た尚巴志は、中山へ攻めのぼってこれを乗っ取り、父思紹(ししょう)を中山王に就けて「尚氏王朝を開き、北山・南山を平定する。これを機に、新王城を首里に構え遷都した。
しかし、第5代尚金福(しょうきんぷく)王が薨(こう)ずると後継争いで首里城は炎上する。越来(ごえく)にあった尚巴志の7子尚泰久(しょうたいきゅう)が急遽首里にのぼって王位を継ぎ、首里城を再建する。
焼失前は瓦葺であったが、再建さけた首里城は板葺きで中国・日本の様式を採り入れた壮麗なものであつた。
尚泰久の子、青年王尚徳(しようとく)はクーデターに遭い、ここに第一尚氏王統は滅び、尚円(しようえん)による第二尚氏王統が樹立される。
第3代尚真(しようしん)王の時に歓会門(かんかいもん)を築造し、第4代尚清(しょうせい)王代に倭寇(わこう)への備えから外壁が築かれて城壁は二重となった。
第7代の尚寧(しようねい)王の時に「薩摩入り」(1609年)があり、琉球は中国の册封(さくほう)体制下にありつつ、実質薩摩の支配下に入る。
第10代尚質(しようしつ)王の時、首里城は失火により2度目の焼失。第11代尚貞(しょうてい)王が瓦葺きで再建する。
現在見る復元首里城は、ほぼこの姿である。琉球王朝は、廃藩置県(琉球では1879年)で終焉する。
王なき首里城は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。戦前まで遺されていたが、沖縄戦で瓦礫の山と化した。
1992年(平成4)国営公園として復元され、2000年(平成12)に他のグスク群とともに遺構が世界遺産に登録された。
首里城をゆく
(しゅりグスク)
史跡首里城址碑
園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいいしもん)「世界遺産指定」
守礼門後方にある御嶽(うたき)で、前に石門が築かれています。ここは、琉球王府の行事や祭祀と密着した重要な御嶽だったといわれ、国王が城外に出かける時、旅の安全を祈願したと考えられています
守礼門(しゅれいもん)
尚清・しょうせい(在位1527〜1555)王時代に創建。琉球王は中国からの使者・冊封使をここで迎えた。「守礼之邦」と書かれた額は、「礼節を重んずる国」という意味。
大手道の綾門大道(あやじょううふみち)には、二つの門があった。入口が「中山門」でこれが国門(下剤はない)・中門が守礼門。中国・日本・琉球の3様式が織りあわされ、扁額には「守禮之邦(しゅれいのくに)とある。1958年(昭和33)に復元される。
歓会門 (かんかいもん)
首里城の城郭に入る第一の門、よろこびほこる門という意味。尚真・しょうしん(在位 1477〜1526)王時代に創建。国王はじめ上級役人、外国使者等の男性専用の門。
歓会門 (かんかいもん)の右側にあるシーサー
歓会門 (かんかいもん)の左側にあるシーサー
龍樋(りゅうひ)
龍の口から出る湧水は国王専用の飲料水として利用された。首里城の内外の深い緑は雨水を地下に貯え、この豊富な地下水は城内や城下町に泉となって湧き出した。
瑞泉門 (ずいせんもん)
立派な、めでたい泉という意味。門のそばにある龍樋にちなんで名付けられた。
漏刻門(ろうこくもん)
「漏刻」は中国語で「水時計」の意味。門の楼内の水時計と奥の広場にある日時計とセットで時間を計った。時刻は太鼓で知らせたという。
日影台(にちえいだい)
漏刻門内にある「日時計」。時刻版には、十二支等が刻まれている。
首里森御嶽 (すいむいうたき)
首里城には聖地として城内に10の御嶽があった。その中で城域の中心にあり国家の重要な拝所。10の御嶽の内、ここだけが男子禁制ではなかった。
系図座(けいずざ)・用物座(ようもつざ)
下之御庭の西側にある建物は、系図座と用物座という役所があった建物です。 系図座は士族の家系図を管理していた役所です。 用物座は城内で使用する物品、資材などの管理を行っていた役所です
廣福門(こうふくもん)
中央部の屋根を高くして、門を設けています。屋根は赤瓦葺の入母屋造りで、門の正面に向かって左側が民事・司法関係を取り扱った役所である大与座、右側が寺院や神社、宗廟祭典(祖先を祭る行事)をつかさどる役所、寺社座になっていました。
奉神門 (ほうしんもん)
中華風の木造門。奉神門をくぐると、正殿のある御庭(うなー)で別世界が広がっている。
正殿(せいでん) 
冊封使を接待するために建てられた中国風の殿。また、国政最高の評議機関である評定所が置かれた。北殿では、琉球にペリーが来航した際や2000年に開催された沖縄サミットでも各国首脳を招いてのディナーパーティーが開かれるなど外交の舞台となった。
正殿正面(内部をご覧の方はここをクリックして下さい)
南殿(なんでん)
薩摩藩の役人を接待するために建てられた和風建築様式の殿。後には公の礼式、祝宴などは大方ここで開かれるようになった。
右掖門(うえきもん)
 久慶門から東に長く延びた石畳の坂道の上にあり御内原への通用門として使用されていました。
久慶門(きゅうけいもん)
首里城外郭の北側に位置しており、俗に「ほこり御門(うじょう)」と呼ばれ、通用門として主に女性が利用していました。
久慶門を裏から眺める
北面の城壁
沖縄のグスクの城壁は直線的でなく、ゆるやかなカーブを画いている。沖縄は台風の通り道で風を受け流す設計だとも言われている。一般に石積み方は野面積・あいかた積・布積があるが、首里城は一部にあいかた積(石の形を組み合わせる)がみられるものの、ほとんど布積み(石を四角に切って積む)。石材は琉球石灰岩を用いている。
赤線から下は遺構石積みで上は復元石積みである。
琉球石灰岩で布積み技法で築かれた城壁
北面の城壁
寒水川樋川(さんがーひーじゃー)
瑞泉門前の龍樋と並んで首里城内の重要な水源地でした。生活用水のほかに防火用水としても利用されたといわれています。あふれ出た水は地中の溝を通り、久慶門の外側の左右から再び地中に入り、門の向かいに側にある円鑑池に抜けました。円鑑池が満水になるとさらに龍潭に注ぎました。このことから首里城の配水処理の一端を知ることが出来ます。
木曳門(こびきもん)
この門は首里城の修復工事の時にのみ、資材の搬入口として使用された門です。普段は石積みによって封鎖され、数年に一度といった頻度で行われる工事の時だけそれを撤去して使用していました。現在は、車椅子などの通路として解放されています。
京の内への石門
門を入った裏側から眺める
京の内から眺める御座
  首里城発祥の地ともいわれる聖域で、城内最大の祭祀空間であった。
  ここでは、聞得大君や三平等の大あむしられと呼ばれる首里の神女たちによって王家繁栄、航海安全、五穀豊穣などが祈られていた。
京の内の城壁
西のアザナ(いりのあざな)
標高約130mの城郭の西端に築かれた物見台です。別名「島添アザナ」ともいい、往時にはここに旗を立て、鐘を備えて時刻を報じました。城内外の眺望は最高です!
物見台に上がる階段
西のアザナから眺める首里杜館(すいむいかん)
西のアザナの城壁
日本のお城へ H.19年の登城へ  沖縄県のお城へ 次へ