般若寺

寺伝では舒明天皇元年(629年)、高句麗の僧・慧灌(えかん)の創建とされ、天平7年(735年)、聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したというが、これらを裏付ける確実な史料はない。別の伝承では白雉5年(654年)、蘇我日向臣(そがのひむかのおみ)が孝徳天皇の病気平癒のため創建したともいう(『上宮聖徳法王帝説』裏書)。平安時代に入って、10世紀初め頃には聖宝(しょうぼう、真言宗の僧、醍醐寺の開山)の弟子の観賢(854年−925年)が中興したというが、その後平安時代末頃までの歴史はあまり明らかでない。治承4年(1180年)、平重衡(たいらのしげひら)による南都焼き討ちの際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。

撮影 2006.10.16

般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あって、正確なところは不明である。ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、天平14年(742年)の正倉院文書に般若寺の名が見えることなどから、この寺が奈良時代に存在していたことは確かである。

楼  門 (国宝)
民家の建ち並ぶ京街道に面し、西面して建つ。入母屋造・本瓦葺きの楼門(2階建て門)、鎌倉時代(13世紀後半)建立。
  • 本  堂   (奈良県指定文化財)−寛文7年(1667年)建立。
三十三所観音石像とコスモス 
十 三 重 石 塔
般若寺のシンボルとも言える十三重石塔は、鎌倉時代に入って再建が始められ、僧・良恵(りょうえ)らによって建長5年(1253年)頃までに完成した。
十三重石塔」は境内の中枢的な位置にあり高さも14.2mもある巨大な石塔で今では般若寺のシンボルとなっており。コスモスに埋まって大きく聳え立っており一際目立ちます。
経  堂  (鎌倉時代)
お経の全集である一切経(大蔵経)を収納するお堂。
建物は当初、床のない全面開放の形式で建てられ何に使われたかは不明であるが、鎌倉末期に経蔵に改造された。収蔵のお経は中国で南宋から元の時代に大普寧寺で開放された「元版一切経」(5500巻)で800巻余が現存している。般若寺の一切経は数学研究にも利用されるとともに、毎年4月25日(旧3月)の「文殊会式」では1週間かけて「一切経転読供養」が営まれ減罰生善の利益を授けることにも供された。
石灯篭    (鎌倉時代 花崗岩製 総高3.14m)
古来「般若寺型」あるいは「文殊形」と呼ばれる署名な石灯篭。竿と笠部分は後補であるが、基台、中台、火袋、宝珠部は当初のもので、豊かな装飾性を持つ。火袋部には鳳凰、獅子、牡丹唐草を浮き彫りする。
笠塔婆(かさとうば) 2基  (花崗岩製 南塔(右)4.46m 北塔4.76m)
笠塔婆形式の石塔では日本最古最大の作例。また刻まれた梵字漢字は鎌倉時代独特の雄渾な「薬研彫り」の代表作とされる。1261年(弘長元年)7月、宗人石工、伊行吉(いぎょうきち、いのゆきよし)か゜父伊行末の一周忌にあたり、その追善と現存の悲母の供養のために建立した。両塔の前面下部にい行末の出身地、東大寺再建に従事したことなどその業績を記す。当初は寺の南方にあつたた般若野五三味(南都の惣墓)の入口、京街道に面して建っていたが、明治初年の廃仏毀釈に遭い破壊され明治25年に境内へ移設再建された。能の謡曲「笠卒塔婆」は本塔を題材にした平重の修羅もので室町の頃は重衡の墓と見られていた。
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