[BRM]

日本のDIPS更新史

正確には 日本のFIP(c=3.12)更新史


DIPS と FIP の混同解消に向けた修正(2011. 3.13) 2011年に公開した「DIPS と FIP に対する当館のスタンス」に基づき、
本稿においても DIPS と FIP の混同を解消するため、原則として
DIPS という表記は FIP という表記に改めています。
なおここでの FIP は全て FIP(c=3.12) を指すものです。

この修正に関する詳細は上のリンク先の文書をご参照ください。
またこの修正の根拠について、「3.12はどこから来たのか(上)
3.12はどこから来たのか(下)」も併せてご一読ください。
DIPS とは、「Defense Independent Pitching Statistics」の略で、アメリカ合衆国で提唱された全く新しいタイプの投手の査定方法である。

という書き出しで、日本語版 Wikipedia における DIPS の項目は始まっている。詳細はそちらをお読みいただければ把握できると思われるが、要するに、野手の守備力などの影響を受けない、投手の能力のみによって成績が変動するとされる「被本塁打」「与四球」「奪三振」の3項目をもって、選手の数値を評価しよう、という試みである。

DIPSFIP 自体は既に日本に紹介されて久しく、何人もの人が計算結果を公表しているが、まとまった形での全体調査は、まだ行われたように見受けられない。今回、1936年以降に一軍公式戦に登板した全投手について、シーズン記録としての DIPSFIP を算出してみたので、ここで報告したい。なお、DIPSFIP の算出にあたって、今回は次の公式を採用した。

{ ( 与四球 - 故意四球 + 与死球 ) * 3 + 被本塁打 * 13 - 奪三振 * 2 } / 投球回数 + 3.12

ただし、故意四球については1955年に公式記録として採用されているため、それ以前のデータについては故意四球を含めずに算出した。したがって同年以前の記録については厳密な比較はできないが、上の公式を見ると分かるように、故意四球は四球から引いた後に3を乗じて投球回数で割るので、故意四球1個につき「3 / 投球回数」の値だけ DIPSFIP が下がる計算となる。

例えば「投球回数200、故意四球10」の場合、故意四球を含めずに計算すると0.150大きい値が算出される。したがって、後年の記録と比べて0.1〜0.2程度は実際より悪い値が出ているかもしれない。

上の故意四球と同様に、奪三振1個につき「2 / 投球回数」の値だけ DIPSFIP は下がる計算となる。仮に投球回数が200超えた場合、奪三振1個につき0.01未満の値が下がることになるため、防御率のように小数第2位までで表示すると、細かい部分の違いが見えにくくなる。そのため、位数については小数第4位を四捨五入して小数第3位までとした。

なお、日本記録およびリーグ記録の認定にあたっては、規定投球回数(年度により規定登板数もしくは規定完投数)到達者(以下「規定到達者」とする。)を対象としているため、1936年春夏のシーズンについては今回は報告対象の外とした(算出はしている)。また、各年度の最も値のよかった選手について「最優秀DIPSFIP」という表記を使用する。むろん正式のタイトルではないが、便宜上「最優秀DIPSFIPを獲得」という表現も使用することをお許しいただきたい。

もちろん、規定投球回数にわずかに及ばないがために好記録を見逃したとあってはいけないので、規定未満の選手についても調査をし、随時取り上げる。

最後に、以下で各年度の最優秀DIPSFIPの表を掲載しているが、「与四死」欄は「与四球 - 故意四球(採用前の場合は0) + 与死球」の値である。


  
1936秋 2.754 沢村 栄治 120.1 60 0 112
1937春 2.481 沢村 栄治 244.0 70 2 196
1937秋 2.527 沢村 栄治 140.0 54 1 129
1938春 3.687 スタルヒン 158.2 59 5 76
1938秋 2.553 スタルヒン 197.2 60 0 146
1939 3.096 スタルヒン 458.1 167 4 282
1940 2.479 野口 二郎 387.0 69 7 273
1941 3.082 野口 二郎 338.0 86 5 168
1942 2.892 野口 二郎 527.1 110 6 264
1943 3.171 林 安夫 294.0 59 2 94
1944 3.132 藤本 英雄 169.2 63 3 113

戦前の記録でまず目を引くのは、やはり沢村栄治である。最初の本格的シーズンである1936年秋に2.754、翌1937年春には2.481と更新し、1937年秋のシーズンも2.527で3シーズン連続の最優秀DIPSFIP獲得であった。仮に1937年の2シーズンを通算して出しても2.498であり、後に述べるが戦後の水準と比べても非常に高い。

その沢村の記録をあっさり破ったのが、「鉄腕」こと野口二郎である。1940年に2.479をマークし、戦前の最高記録とした。沢村が与四球率2.51であるのに対し野口は1.51とコントロールの良さで上回った。

ただし、故意四球を考慮すると上の結果もまた変わってくる可能性がある。1937年春の沢村の場合、3/244=0.0123...となり、故意四球1個で0.012下がる計算である。したがって、故意四球が7あったとすると2.481-7*0.012=2.397となり、2.4を切る値となる。野口の場合は故意四球1個あたり0.007下がる計算となるので、故意四球12個でようやく2.4を切ることから、故意四球が採用されていれば、沢村のほうが上位であった可能性も否定できない。

  
1946 3.584 白木 義一郎 440.0 117 13 158
1947 3.379 別所 昭 448.1 140 6 191
1948 3.100 柚木 進 248.0 58 5 122
1949 3.436 藤本 英雄 288.0 61 14 137
    
1950 3.565 服部 受弘 238.1 55 11 101 3.160 荒巻 淳 274.2 56 11 150
1951 3.348 藤本 英雄 206.1 44 7 88 3.387 柚木 進 198.1 35 12 104
1952 3.385 大友 工 207.1 55 10 120 2.913 柚木 進 193.0 30 6 104
1953 3.173 大友 工 281.1 64 13 173 2.938 米川 泰夫 274.0 60 10 180
1954 2.870 杉下 茂 395.1 110 9 273 2.705 西村 貞朗 275.0 76 10 236

戦後になると本塁打が増えはじめる。その影響かなかなか数字は改善せず、戦後1リーグ時代の最高DIPSFIPは1948年柚木進の3.100と、2点台がついぞ出なかった。飛ぶボールが使われた1950年前後もまた、なかなか2点台が現れない。

2リーグ制となってパリーグでは、1950年に荒巻淳が3.160をマークしたのが初代のリーグ記録で、1952年に柚木が戦後初の2点台となる2.913で更新した。柚木は1951年も3.387でリーグトップであり、戦前の3投手に並ぶ都合3度の最優秀DIPSFIPは、見事であったといえる。

一方、セリーグでもなかなか記録水準は上がってこなかった。1950年の服部受弘3.565が初代のリーグ記録であり、その後1951年藤本英雄の3.348、1953年大友工の3.173ときて、1954年に杉下茂がようやく2.870と3点台を切った。杉下の場合故意四球1につき0.007下がることになるが、これを2.500まで持っていこうとするとあと48四球を減らす必要があり、なかなか戦前の水準には届かない。

    
1955 2.351 西村 一孔 295.1 78 11 302 2.775 和田 功 220.1 62 6 170
1956 2.152 小山 正明 232.1 37 8 220 2.712 稲尾 和久 262.1 77 2 182
1957 2.460 小山 正明 250.0 40 9 201 2.596 米田 哲也 299.2 83 10 268
1958 2.407 金田 正一 332.1 59 16 311 2.179 稲尾 和久 373.0 71 8 334
1959 2.389 村山 実 295.1 59 15 294 2.261 杉浦 忠 371.1 44 17 336
1960 2.927 小山 正明 362.0 72 20 273 2.705 杉浦 忠 332.2 44 28 317
1961 2.736 権藤 博 429.1 65 20 310 2.511 稲尾 和久 404.0 58 22 353

ようやく戦前の記録が塗り替えられるのは翌1955年である。塗り替えたのは、この年大阪に入団したルーキーの西村一孔。リーグ最多の60試合に登板して22勝、防御率2.01とあって新人王に選ばれたのも当然の成績だったが、DIPSFIPも一気に2.400を切って2.351。故意四球をカウントしなかったとしても2.392なので堂々の日本新記録である。奪三振302は金田正一に次ぐリーグ2位ながら、奪三振率で見れば金田の7.88に対して西村は9.20と球威が凄かった。

しかし西村自身は、この1年で力尽きたかのように、以後3年間で9勝しただけで現役を引退することになる。しかも、せっかくの記録も翌年には早々に更新されたのだから不運といえば不運である。

記録を更新したのはチームメイトの小山正明である。しかも、西村が一気に2.400の壁を超えたのを、小山はさらに上を行き、2.200の壁を越えて2.152であるから、まさに空前絶後といえよう。

精密機械と称されたコントロールで知られるようになる小山は、この年規定投球回以上の投手の中では2番目に与四球が少なかった。最小与四球の渡辺省三も与四球率1.037(小山は1.549)の制球力を誇ったが、奪三振率2.90と打たせてとるタイプであったのに対し、小山は奪三振率7.74と三振も取れたのがやはり大きかった。

小山は以後1957年2.460、1958年2.555と3年続けて好成績を残し、まさに全盛時代であったといえよう。もっとも1958年は金田正一が2.407をマークしておりトップの座は奪われている。

さてパリーグのほうだが、1954年には一足お先にとばかり、同じ「西村」姓の西村貞朗が2.705をマークしてリーグ記録を更新。さらに米田哲也が1956年2.659、1957年2.596と2年連続で更新した。西村の記録までは故意四球がカウントされておらず、米田の記録を故意四球抜きで計算するとそれぞれ2.718と2.676となるので、実質的には1957年の記録で更新であったと見ても良いだろう。

この状況を一気にクリアにしたのが1958年の稲尾和久である。入団した1956年は2.712、1957年は2.668と徐々にステップアップし、この年には、前年に比べ投球回数はほぼそのままで奪三振を50上積みして2.179を記録、小山の日本記録に肉薄するリーグ記録とした。72試合373イニングを投げてのスタミナ記録という点でも特筆に価しよう。

この年は他にも米田が2.462をマークしており、規定投球回数未満ながら投球回数182.2の小野正一も2.452を記録するなど、DIPSFIPを記録するには非常に好条件のそろったシーズンであったといえるだろう。

翌1959年には大阪の新人村山実が先輩西村の新人シーズン記録に迫ったが、2.389で惜しくも届かなかった。かたやパリーグでは38勝4敗の成績を挙げた杉浦忠が当時歴代3位となる2.261をマーク。前年の2.973から大きく上がったのも当然であった。なお、この年の稲尾は2.528であった。

2年後の1961年に稲尾はシーズン42勝の日本記録をマークすることになるが、この時は2.511であった。そしてこれを最後に、しばらく2.5点台の記録すら見られなくなる「DIPSFIP冬の時代」に突入する。

    
1962 2.702 村山 実 366.1 52 17 265 2.841 尾崎 行雄 207.2 68 10 196
1963 2.900 金田 正一 337.0 80 20 287 3.376 稲尾 和久 386.0 71 26 226
1964 3.191 バッキー 353.1 94 11 200 3.224 梶本 隆夫 231.2 55 11 142
1965 2.901 宮田 征典 164.2 24 14 145 3.096 尾崎 行雄 378.0 70 23 259
1966 2.936 権藤 正利 136.0 38 5 102 2.883 稲尾 和久 185.2 27 11 134
1967 2.913 権藤 正利 135.0 36 6 107 2.996 宮崎 昭二 137.1 32 3 76
1968 2.731 江夏 豊 329.0 99 29 401 3.242 皆川 睦男 352.1 65 18 193
1969 2.876 江夏 豊 258.1 80 17 262 3.224 小山 正明 182.1 32 15 136
1970 2.787 村山 実 156.0 31 7 118 3.532 小山 正明 242.2 45 19 141
1971 3.067 江夏 豊 263.2 65 25 267 3.611 佐々木 宏一郎 228.1 46 16 117
1972 3.138 安田 猛 168.2 29 6 81 3.687 清 俊彦 236.1 59 21 158
1973 3.149 安田 猛 208.2 17 13 107 3.453 木樽 正明 165.1 38 9 88
1974 3.120 安田 猛 130.1 16 6 63 3.439 佐藤 道郎 131.2 35 7 77
1975 3.282 鈴木 孝政 148.1 21 15 117 3.309 東尾 修 317.2 62 14 154
1976 3.778 松岡 弘 222.0 84 18 170 3.116 村田 兆治 257.1 78 13 202
1977 3.877 新浦 寿夫 136.0 55 10 96 3.286 村田 兆治 235.0 68 15 180
1978 3.684 井原 愼一朗 133.0 45 10 95 3.327 鈴木 啓示 294.1 48 21 178
1979 3.403 新浦 寿夫 236.1 67 24 223 3.324 村田 兆治 255.0 58 26 230
1980 3.636 松岡 弘 157.0 45 10 92 3.768 木田 勇 253.0 92 26 225
1981 3.241 江川 卓 240.1 40 27 221 3.553 高橋 一三 198.2 50 12 110
1982 2.866 山本 和行 141.2 20 10 113 3.557 工藤 幹夫 197.0 58 8 96
1983 3.418 福間 納 130.2 29 10 89 4.045 東尾 修 213.0 53 14 72
1984 3.426 小林 誠二 130.2 36 12 112 4.139 松沼 博久 154.0 56 13 90
1985 3.667 小松 辰雄 210.1 49 24 172 4.029 荘 勝雄 158.1 49 13 86

例えば、1967年に日本記録の401奪三振を挙げた江夏豊が2.731、1970年に戦後唯一の防御率0点台を記録した村山が2.787、新人から3年連続最優秀DIPSFIPという輝かしい数字を挙げた安田猛も、最高で1974年の3.120という状態である。

パリーグにいたってはこの間2.800を切る数字を残した選手は一人もいない。かろうじて、稲尾が1966年に史上最多となる5度目の最優秀DIPSFIPを獲得したのを、小山もまた1969年と1970年に連続して最優秀DIPSFIPを獲得して、セパ両リーグにまたがる通算5度という記録で並んだのが話題になる程度である。

    
1986 3.511 遠藤 一彦 233.0 28 29 185 3.798 荘 勝雄 143.0 41 18 130
1987 3.099 槙原 寛己 140.1 35 12 132 3.433 工藤 公康 223.2 62 18 175
1988 2.531 大野 豊 185.0 38 11 183 3.397 阿波野 秀幸 220.1 50 21 181
1989 2.248 大野 豊 145.2 33 4 139 3.604 郭 泰源 198.1 45 15 117
1990 3.367 桑田 真澄 186.1 40 12 115 3.090 野茂 英雄 235.0 111 18 287
1991 2.933 今中 慎二 193.0 56 10 167 3.512 野茂 英雄 242.1 132 21 287
1992 3.230 仲田 幸司 217.1 68 16 194 2.837 石井 丈裕 148.1 29 9 123
1993 2.903 今中 慎二 249.0 60 20 247 3.028 星野 伸之 185.1 53 10 153
1994 2.822 斎藤 隆 181.0 73 5 169 3.236 伊良部 秀輝 207.1 98 16 239
1995 2.997 ブロス 162.1 60 6 139 2.524 伊良部 秀輝 203.0 80 9 239
1996 3.072 斎藤 雅樹 187.0 46 13 158 2.758 伊良部 秀輝 157.1 62 7 167
1997 3.246 三浦 大輔 142.1 53 9 129 2.768 小宮山 悟 187.2 30 8 130
1998 3.030 斎藤 隆 143.2 24 9 101 3.621 小宮山 悟 201.2 31 20 126
1999 2.478 上原 浩治 197.2 25 12 179 2.437 工藤 公康 196.1 34 12 196
2000 2.657 工藤 公康 136.0 17 14 148 3.754 石井 貴 135.2 43 9 80

この冬の時代にようやくピリオドを打ったのが、槙原寛己と大野豊であった。槙原は、1983年にデビューした時は4.387であったが、1986年には規定不足の投球回数114.0ながら2.524と25年ぶりに2.5点台をマーク、3年後の1989年には規定投球回にも到達し、2.383を記録した。

大野はこれに先駆け1988年に2.531をマーク、規定投球回到達者としては26年ぶりの2.5点台であった。さらに1989年には槙原を上回る2.248をマーク。杉浦の記録をも抜き歴代3位の数字とした。これで再び記録更新の期待もかかったが、1995年の伊良部秀輝が2.524をマークしたのが目立つ程度で、再び平凡な数字が並ぶようになる。

結局次に2.50を切るのは10年後となった。1999年に入団した上原浩治は新人ながら20勝をマークしたが、DIPSFIPも2.478と、2.500をクリア。規定投球回数以上でのクリアは1959年の村山以来実に40年ぶりであった。ともに新人での記録というのも面白い。

また、同じ年にパリーグでは工藤公康が上原を上回る2.437をマーク、両リーグ揃って2.500をクリアというのも40年ぶりの実現である。こちらもリーグを移って2年連続というのが面白い。

    
2001 2.108 野口 茂樹 193.2 29 7 187 3.912 田之上 慶三郎 171.2 42 16 99
2002 2.865 上原 浩治 204.0 26 18 182 3.205 岩隈 久志 141.1 48 10 131
2003 3.173 井川 慶 206.0 58 15 179 2.857 松坂 大輔 194.0 70 13 215
2004 3.358 黒田 博樹 147.0 30 17 138 2.990 松坂 大輔 146.0 48 7 127
2005 3.270 黒田 博樹 212.2 47 17 165 2.469 杉内 俊哉 196.2 42 14 218
2006 2.803 黒田 博樹 189.1 24 12 144 2.476 松坂 大輔 186.1 37 13 200
2007 2.943 グライシンガー 209.0 33 14 159 2.542 ダルビッシュ 有 207.2 61 9 210
2008 2.429 ルイス 178.0 29 12 183 2.317 岩隈 久志 201.2 39 3 159
2009 2.530 ルイス 176.1 33 13 186 2.768 ダルビッシュ 有 182.0 51 9 167

環境面でも機が熟してきたのであろうか。2001年、ついに新記録が生まれる。記録を作ったのは、最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを獲得した野口茂樹である。

この年、プロ9年目で初の無四球完投勝利を記録した野口は6月上旬まで開幕8連勝、被打率.075で4完封と完璧な投球を見せた。6月・7月はなかなか勝てなかったが8月に入ると4試合連続無四球試合。武器としたスライダーをはじめ、コントロールが抜群に冴えていた。

結局野口は投球回数193.2で被本塁打7、与四球28(うち故意四球1)、与死球2、奪三振187でDIPSFIPは2.108。小山の記録を0.044上回る日本新記録としたのである。貧打に泣いて12勝しか挙げられなかった点だけがかわいそうである。

2005年以後は毎年のように2.50前後を記録する投手が現れるようになり、2008年には岩隈久志が2.317をマークしたが、野口・稲尾の記録に肉薄するものは現れていない。それだけ野口の記録更新が素晴らしかったことがわかるが、実はこれ以前にもう一人、小山の日本記録に挑んだ選手がいる。

1993年にヤクルト入りした伊藤智仁はスライダーを武器に活躍。前半戦で7勝2敗、防御率0.91という成績を残したが、その後ひじ痛でリタイアし、規定投球回には到達していない。しかしこの時伊藤がマークしたDIPSFIPは2.157であり、小山の記録に肉薄するものであった。その後の選手生命を考えても、つくづく悔やまれる故障である。


    
1 2.108 2001 野口 茂樹 193.2 28 1 2 7 187 日本記録、セリーグ記録
2 2.152 1956 小山 正明 232.1 40 7 4 8 220 通算最多タイ5度
3 2.179 1958 稲尾 和久 373.0 76 9 4 8 334 パリーグ記録、通算最多タイ5度
4 2.248 1989 大野 豊 145.2 36 4 1 4 139
5 2.261 1959 杉浦 忠 371.1 35 2 11 17 336
6 2.317 2008 岩隈 久志 201.2 36 1 4 3 159
7 2.351 1955 西村 一孔 295.1 78 4 4 11 302 新人日本記録、新人セリーグ記録
8 2.383 1989 槙原 寛己 150.2 33 4 2 6 141 最優秀DIPSFIP以外では最高
9 2.389 1959 村山 実 295.1 56 2 5 15 294
10 2.407 1958 金田 正一 332.1 60 4 3 16 311
2.479 1940 野口 二郎 387.0 65 --- 4 7 273 1リーグ時代最高
2.712 1956 稲尾 和久 262.1 73 4 8 2 182 新人パリーグ記録

さて、このようにDIPSFIPの記録更新史を見てきたのであるが、これを「日本記録は2001年野口の2.108」とだけ書いたのでは、その凄さはなかなか伝わらないだろう。それまでの記録更新の歴史を踏まえた上で、初めて到達しうる評価点があるわけで、過去の記録を踏まえることがいかに大事であるかが分かっていただけたのではないだろうか。

また、西村一孔のような選手の存在が浮かび上がってくるのは、記録を調べることの楽しさでもある。西村は不運と先に書いたが、それでもその記録は新人投手のDIPSFIPとしては今なお日本記録であり、西村に対する評価もまた変わろうというものである。

このように埋もれた日本記録、あるいは、今は日本記録でなくとも、その時点では日本記録であった過去の記録を残した、選手たちに対する敬意も忘れてはならない。その敬意は、少なくとも同時代の人が払ってきたものであり、当時の記録に対する意識を知ることにもつながるからである。


written by Seiichi Suzuki, at 2010. 9.14. / updated at 2011. 3.13.